心理学の歴史

みてみて実感! 心理学史 -第9回-

サトウタツヤ
立命館大学文学部教授。

今回は珍しく次回予告あり。カントについて書く日が来ることは予想していましたが,やはり不十分。このメモ書き程度のものが多くの人の知的関心を呼び覚まして研究が進むことを願っています。

心理学は科学になれない イマヌエル・カントが言ったことについてのメモ

イマヌエル・カント(Immanuel Kant,1724-1804)は,ドイツの思想家でドイツ観念論哲学の祖として有名な人です。彼は『自然科学の形而上学的原理』において以下のように述べています。なお,『自然科学の形而上学的原理』は1786年に書かれたもので,岩波書店の『カント全集〈12〉自然の形而上学』(犬竹正幸訳)に収録されています。

しかし経験的心理論は,化学と比べても,本来的に自然科学と呼ばれるべきものの域からはつねにほど遠い状態にとどまらざるをえない。それは第一に,内官の現象やその法則には数学が適用されえないからである。なるほどその場合でも,内官の内的変化の流れにおける恒常性の法則だけを考慮するというのであれば,話は別である。このような法則もたしかに認識の拡張といえるであろう。だが,かかる認識の拡張を,数学が物体論にもたらす認識の拡張と比較するならば,その違いはおおよそ,直線の性質についての学説と全幾何学との違いに匹敵するであろう。なぜなら,心的現象がそこで構成されるべき純粋な内的直観は時間であり,時間はただ一次元をもつのみだからである。しかしまた,体系的な分析技術あるいは実験論としても,経験的心理論はとうてい化学に近づくことはできない。なぜなら,経験的心理論の場合,内的に観察される多様なものは,単に思考上の分析によって相互に分離されるのみで,それを分離したまま保持しておいたり任意にふたたび結合したりすることはできない。ましてやほかの思惟主体は,意のままにわれわれの実験にしたがうというわけにはゆかず,また,観察という行為自体が観察対象の状態を変え歪めてしまうからである。それゆえ,経験的心理論はけっして内官の記述的自然論以上のものとはなりえず,また記述的な科学としても,せいぜい体系的な自然論,すなわち心の自然記述となりうるだけであって,心の科学とはなりえない。それどころか,とうてい心理学的実験論にすらなりえない。

カント以前の哲学は外部事象(つまり物体)について考えるものであったのですが,彼は哲学の目的を構築し直して,人間について考える学問に定義し直したとされます。それまでのように「認識が対象に従う」という考えを逆転させ「対象が認識に従う」としたのです。そうであれば人間の認識が哲学の対象になります。カントは人間の認識能力について考究の対象とし,感性と悟性というカテゴリーが先験的に備わっていると考え『純粋理性批判』など三部作をとおして批判哲学を完成しました。さて,そのカントはニュートン的科学を優れた科学のモデルだと考えており,心や魂について扱う学問は科学たりえないと考えていたのです。数学が適用できること,実験ができること,これが科学の要件でした。

科学の定義はカント以前にもカント以後にも多数存在しますが,心理学の科学化はこのカントの定式を乗り越える形で行われていたことは間違いありません。たとえばヘルバルト(Herbart,J.F.)の表象力学は数式化を推し進めようと努力しました。一方,フェヒナー(Fechner,G.T.)は心理学とは別の文脈で精神を対象にした実験を数多く試みていました。ヘルバルトの努力は水泡に帰し,フェヒナーの実験法は心理学の有力な方法として残りました。この辺の事情については次回取り上げたいと思います。

心理学ワールド第34号掲載
(2006年7月15日刊行)