心理学の歴史

みてみて実感! 心理学史 -第17回-

サトウタツヤ
立命館大学文学部教授。

小特集に合わせてt検定を取り上げました。約100年前の論文にギネスで乾杯!
アステリスクの数が世界で一番多い論文を書いたらギネスブックに載せてくれるだろうか。

統計で疲れたらビールで乾杯?! スチューデントのt検定とギネスビールの関係

ビールは好きじゃないという人でも英国ギネスビールのことは知っていると思います。ギネスブックの出版元といえば誰でも知っているはずです。

1889年,ギネス社は大学で化学を学んだゴセット(William Sealy Gosset;1876~1937)を雇い入れました。彼は,ビールの麦芽汁に酵母液をどれくらい入れればよいのか,ということを扱っていました。酵母は生きているので,正確な数はわかりません。しかも酵母液すべての検査をするわけにはいかないので,一部を抜き取って数えるしかありません。少数の標本から全体を推定するとして,それがどれくらい正しいのかをゴセットは知りたかったのです。ゴセット以前の統計では,標本を無尽蔵に扱えることが前提となっていました。

ゴセットは自宅で特定の分布から小標本を繰り返し抽出し,数値を計算することを繰り返しました。すべて手作業で。その結果,取り出した標本の平均と推定した標準偏差の比を計算すると,それが,もとの分布の4つのパラメータ(平均,標準偏差,歪度,尖度)と比例することがわかりました。このことは,小標本データから母集団分布の4つのパラメータを推定できることを意味します。

その後ゴセットは会社から研究休暇を得て,ユニバーシティ・カレッジのカール・ピアソン(Pearson, K.)の下で研究を行いました。ところが,研究発表にあたってギネス社が社員の研究発表を快く思っていなかったという事情がありました。以前のある研究発表がビール生産に関する重要な機密事項を暴露してしまったからです。そこで,ゴセットは「スチューデント」というペンネームを使うことにしました。1907年の第1論文は酵母菌を算定盤で計測するときの誤差に関するもので,1908年に不朽の論文『平均の確率誤差(The Probable Error of a Mean)』を"Biometrika"に発表したのです。これは今でいう,t分布およびt検定の考え方を初めて示したものです。ゴセットは標本平均と母平均の差を標本標準偏差で割った量をzとおき,その分布曲線を示したのです。このとき,母平均をゼロとすることにより平均値の検定という考え方に結びつきます。ただし,この論文には危険率という考えやましてやアステリスク(*)などはありません。この論文は10数年ほど忘れられた存在で,フィッシャー(Fisher, R. A.)が推測統計学の中心の1つにおいたことで,今に至る影響力をもつようになりました。

さて,ゴセットはその活動をギネス社に知られなかったようです。彼は最終的にロンドン醸造所の所長という地位に上り詰めていますし,米国の統計学者・ホテリング(Hotelling, H.)がスチューデントに会おうとしたときには,秘密裏に手はずが整えられた,と述懐しています。

死後,彼の友人がギネス社にかけあって追悼論文集のための寄付を得ようとしたことによって,会社は,優秀な社員が2つの顔をもっていたことを知ったそうです。

文献

安藤洋美(1997).多変量解析の歴史 現代数学社
Salsburg, D. S.(2001). The lady tasting tea : How statistics revolutionized science in the twentieth century. New York: W. H. Freeman & Co.
(サルツブルグ, D. S. 竹内惠行・熊谷悦生(訳)(2006).統計学を拓いた異才たち 日本経済新聞社)
Student(1908). The probable error of a mean. Biometrika, 6(1), 1-25.
Tonse N. K. Raju(2005). William Sealy Gosset and William A. Silverman: Two "students" of science. Official Journal of the American Academy of Pediatrics, 116(3), 732-735.

心理学ワールド第42号掲載
(2008年7月15日刊行)