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【小特集】
マンガ実作者が試した「視点」の多重構造
すがやみつる(菅谷 充)
Profile─すがやみつる
1971年,『仮面ライダー』(石ノ森章太郎原作)でマンガ家デビュー。1983年,『ゲームセンターあらし』『こんにちはマイコン』で第28回小学館漫画賞受賞。1994年,娯楽小説作家デビュー。2013~21年,京都精華大学マンガ学部教授。
まだ新しいマンガ表現論
マンガ評論は1960年代の終わりから盛んになっていたが,当初は作家論や作品論が中心で,表現論が登場してきたのは1990年代以降のことである。夏目房之介の「視線誘導」[1]や竹内オサムの「同一化技法」[2]を中心とした「視点」についての言説が登場し,多くの研究者が後に続くことになった。
夏目の「視線誘導」論は,コマ割りやキャラクター,セリフの配置が,読者の視線をどのように誘導するかを解説したものだが,作者へのインタビューや視線追尾装置実験をしたわけではない。
竹内の「同一化技法」論は,手塚治虫の古いマンガをテキストに,登場人物がどこかを見ているコマの次に風景だけが描かれたコマが続くと,読者は,その風景が登場人物が見ている映像だと認識するという説を唱えた。これは映画のエイゼンシュタイン・モンタージュと同様の編集技術であろう。
実は,筆者はマンガの実作者として,夏目の「視線誘導」や竹内の「同一化技法」が紹介される以前から,この「視点」を強く意識しながら作品を描いていた。
小説から学んだ「視点」
筆者が視点に強い関心を抱くようになったのは,ミステリー専門誌『小説推理』(双葉社)に連載された佐野洋のエッセイ『推理日記』(1973–2012)の影響によるものである。短篇ミステリーの名手でもある佐野は,推理小説を「視点の文学」と呼ぶ理論派で,他人の推理小説の中に「視点の誤り」を発見すると,『推理日記』で鋭く指摘した。
小説で重要なことは,その文章が「誰の視点」で書かれているかである。私小説やハードボイルドなら視点は主人公に固定され,「僕」や「私」などの一人称が主語になる。また,視点は主人公に固定したまま,「鷹野は考えた」などと三人称で表現したり,複数の登場人物の視点を交互に使って物語を多面的に描写したりすることもある。ただし,これらの視点は登場人物の主観に固定されているため,他者の心中を推測することは不可能である。
小説の多くが登場人物の目を通した主観描写を用いるのは,読者が登場人物に感情移入しやすくなるのを期待してのことである。ただし,佐野が「カメラアイ」と名づけた視覚表現には,視点人物が見ている情景や人物しか描けないという制約が伴う。
この登場人物の主観的な視点を用いた主観視点に対し,客観的な視点を用いた小説も多数存在する。客観表現の極致である「神の視点」なら,個人の主観視点では描写できないものも表現できる。SF小説ならカメラアイが宇宙に飛び出したり,海中に潜ったり,人間の体内に入ることもできる。歴史小説なら,関ヶ原の戦いを上空に設置したカメラで俯瞰した描写もできるであろう。
司馬遼太郎や池波正太郎の作品のように,作者が作中に顔を出して語り手となり,地理や歴史の解説をする小説もある。状況の全体像を説明するのに便利な視点で,「作者の視点」と呼ばれることもある。
佐野の『推理日記』は,このように小説の視点について教えてくれると同時に,マンガの視点について考える契機にもなった。
映画の視点
戦後日本のストーリーマンガの元祖とされている手塚治虫のデビュー作『新寳島(しんたからじま)』(1947)は,その構成が映画的であると多くの読者に受けとめられた。事実,手塚は,ディズニーのアニメや映画を多く見て表現のヒントにしていたが,マンガの方が映画よりもはるかに自由で,しかも安上がりに表現の実験ができる。映画は,俳優を集め,ロケ地を探し,セットを組むなど,経済的にも時間的にもコストがかかるからである。
視点についても映画の場合は,物理的なカメラが見た映像を観客に見せるしかない。小説の場合は,主人公の目で見た主観的なショットをつなぐだけで作品になるが,映画は撮影後に編集の手間もかかる。
映画は,場所や時刻,登場人物の置かれた状況説明をするエスタブリッシング・ショットから始まるのが一般的である。そのあとで登場人物がアップになったりするが,たとえば人気俳優が演じる主人公の視点ショットばかりを長く続けることは難しい。主人公が見たショットばかりを続けていると,観客が主人公の顔や姿を見られなくなるからである。
しかし,映画の視点は,その後のカメラの進化によって,多くの制約が取り払われてきた。クレーンを使ったモーション・コントロール・カメラは,『スター・ウォーズ』や『インディ・ジョーンズ』のような激しい動きに追随し,「神の視点」のようなアングルを見せてくれた。
スタビライザーを使ってカメラの揺れやブレをなくしたステディ・カムの登場は,登場人物の自然な視点を映画やテレビに持ち込んだ。NHKの『世界ふれあい街歩き』は,ステディ・カムを使った主観ショットだけで成立している番組である。
佐野の『推理日記』に影響されて視点に興味を抱くようになって以来,映画でもテレビでも視点が気になり,自分のマンガでも視点について考えるようになった。
マンガの多重視点
筆者の代表作はTVアニメにもなった『ゲームセンターあらし』というゲームを題材にしたマンガだが,本作以上に視点に関する実験をした作品はない。たとえば主人公のあらしがゲームマニアの歯科医師とゲームで対決する回では,トビラを除いた30ページ,15見開きの左下にある最後のコマの大半で,あらしやライバルが左方向(次にめくるページの方向)を見て,「うおおっ!」「ああっ!」などと驚く絵を配置した(下図)。
マンガ用語では「引き」と呼ばれる技法だが,ページをめくった最初のコマには,前ページ最後のコマで驚いていた人物の視点で見た光景が,大ゴマで描かれている。当時は「視線誘導」や「同一化技法」という言葉はなかったが,ここで使った仕掛けは,あきらかに上記の技法である。
「同一化技法」については,さらに進化させた。まず最初にやったのは,視点人物と同じコマに,視点人物が見ている情景も重ね合わせること。映像でいうオーバーラップであり,複数の視点(キャラクターを見る読者の客観視点と,情景を見るキャラクターの主観視点)を多層化したことになる。
2コマを1コマにすれば,その分,コマを大きくでき,キャラクターも大きく見せられる。児童マンガは,ストーリー以上にキャラクターの印象が重視される。これはキャラクターを大きく描くための苦肉の策でもあった。
キャラクターや背景の多層化は,少女マンガで見られた技法だが,男子小学生向けのマンガで試しても違和感は持たれなかった。
そこで,多層化の表現をエスカレートさせることにした。たとえば,主人公が空中回転しながらゲーム機を操作するシーンでは,ディスプレイの裏から見た構図を多用した。背景は,主人公が見ているはずのゲーム画面や爆発,宇宙などのイメージ画になることもある。さらに,驚くライバルや主人公に声援を送る仲間の顔も描いたうえに,オノマトペも重ねた多重構造の大ゴマとした(下図)。
主人公が見ているゲームの画面,ライバルや仲間が見ている主人公の姿,背景には主人公の心象風景と,視点が幾重にも複雑に重なっているが,小学生は瞬間的に理解してくれていた。近頃,「マンガの構造が複雑になったせいで,マンガを読めない子どもが増えた」という声を聞くが,これも見せ方次第ではなかろうか。
このような視点を意識した表現を次々と試したが,けっして理論に則ったものではない。思いつきでアドリブ的に試したものがほとんどである。50歳を過ぎて大学に入り,心理学も学んだ現在,ページをめくらせる仕掛けには,アフォーダンスが応用できるかも……と考えているところである。
文献
- 1.夏目房之介他 (1995).『マンガの読み方(別冊宝島EX)』宝島社
- 2.竹内オサム (2005).『マンガ表現学入門』筑摩書房
- *COI:開示すべき利益相反はない。
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