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比較教育学の領域から

林 寛平
信州大学大学院 教育学研究科 准教授

林 寛平(はやし かんぺい)

Profile─林 寛平
スウェーデンに4度留学,現在ウプサラ大学客員研究員。専門は比較教育学。近著に『北欧の教育再発見』(北欧教育研究会 編,明石書店)。

94号「教育心理学と教育政策」(2021年)では「教育心理学の具体的な研究知見が教育政策の立案にまで影響を与えているとは言いがたい」と記されるが,比較教育学から見ると,「もう勘弁してください」と言いたくなるほど多大な影響を受けている。ここでは,心理学に乗っ取られた比較教育学について述べたい。

デンマークの自然保育が素晴らしいとか,日本の生徒の成績が下がったとかいう話を聞くことがあるだろう。ある国の優れた教育制度や実践を取り上げて,自国の政策に活かそうとするのは,比較教育学が古くから取り組んできた仕事だ。比較と言っても,必ずしもAとBを同列に並べるとは限らない。ガーナの教育改革などといった,ある国やエリアのみを対象とする地域研究も日本の研究者が得意としてきた分野だ。これも比較に含まれるのは,その事例を取り上げるからには,必ず他国(多くは自国)が念頭にあると考えるからだ。ところが,こうした地域研究は,国際学力調査(テスト)の台頭で,もはや伝統芸のような立場に追いやられている。

まだEメールもファックスも一般的でなかった1960年代に,心理学者らによって最初の国際学力調査が実施された。彼らは問題冊子を12か国に発送してから数か月間,調査が実際に行われているのかを知る手段もなく,ただ待つしかなかったという。わずかな予算でようやく実施にこぎつけたが,調査の意義を固く信じる彼らにとっても,その成否は賭けの部分が大きかった。回答を分析する以前に,このような国際調査が実際に遂行できるかどうかを確かめることも研究目的に含まれていた。こうして始まった国際学力調査は,OECDの生徒の学習到達度調査(PISA)などにつながり,今では政策立案で頻繁に参照されるエビデンスになっている。

学力調査は心理学の研究手法を社会科学に応用したものだと捉えられる。53号「『試験』から見た心理学」(2011年)という特集では心理学に関して出題された問題が紹介されているが,国際テストの仕組み自体が心理学者らによって用意された点はもっと強調されてもいいだろう。国際テストは教育政策への示唆を得るために実施している。教室の広さや時間割,教員給与,デジタル教科書の導入など,さまざまな要因が子供たちの学力に影響すると考えられてきた。

こうした客観的手法は人間臭い教育学と馴染まない部分もある。現地調査を尊ぶ地域研究の立場から見ると,調査が想定する「世界共通の子供像」に疑問が浮かぶ。例えば,教室でiPadを配ったら,クラウド・ファイルを共同編集して同級生と活発に議論を始める生徒がいるかもしれない。一方で,デバイスを受け取ったその足で質屋に売りに行く生徒もいるかもしれない。地域ごとの教育文化は想像以上に多様で,固有の背景がある。日本を見ても,動物飼育や無言清掃,集団登校など,豊かな文化が根付いている。勉強ができる子ほど自信がないという事象や疑問を抱きながらも守られ続ける校則やベルマーク活動なども,地域研究として見ると興味深い。

96号「社会における心理学の誤用とどう向き合うか」(2022年)では疑似心理学への懸念とアカデミアの役割が書かれているが,私は,比較教育学(者)の新たなライバルはTwitterだと思っている。国際学力調査の技術が高度化しているのに対して,地域研究はコモディティ化しつつある。海外旅行も教育視察も手軽になった。留学や国際結婚で海外に暮らし,ブログやオンラインセミナーで現地の教育事情を発信する人も増えている。比較教育学の裾野は着実に広がっている。喜ばしい一方で,玉石混淆の情報はアカデミアと地続きになった。地域研究は,今度はTwitterに乗っ取られつつある。

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