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【特集】

心理学における疑似科学と誤用

伊勢田 哲治
京都大学大学院文学研究科 教授

伊勢田 哲治(いせだ てつじ)

Profile─伊勢田 哲治
Ph.D. (University of Maryland)。専門は科学哲学・倫理学。1999年,名古屋大学情報文化学部講師,2008年,京都大学大学院文学研究科准教授を経て,2022年より現職。単著に『倫理思考トレーニング』(ちくま新書),『動物からの倫理学入門』(名古屋大学出版会),編著に『宇宙倫理学』(昭和堂)など。

心理学の誤用のいくつかの類型

「心理学の誤用」は本特集のきっかけとなった問題だが,誤用といってもいくつかのパターンを区別することができるだろう。

まず,そもそも心理学が科学の一分野だというイメージがないための誤用というパターンがあるだろう。最近は一般向けの書籍で心理実験が紹介されることも多くなったので,心理学が実験を行う(ことがある)分野だということを認識している人は増えているだろうが,一昔前は,大学で心理学の授業をうけて,「自分が思っていた心理学と違う」と学生が反応するというのは非常に一般的だった(40年前のわたし自身が実際そんな感じだった)。そういう人にとって,心理学は占いの一種だったり,人付き合いの技術を教えてくれるものだったり,イメージはさまざまだろう。

次に,心理学が科学の一部門としてそれなりの知的権威を持っていることは理解しつつも,その方法論をよく理解していないために心理学という概念を誤用するという場合もあるだろう。権威というものが持つ力ゆえに,このタイプの誤用は大きな影響力を持ちうる。「科学のようで科学でないもの」を疑似科学と呼ぶが,その言葉を用いるなら,このタイプの誤用は,「心理学系疑似科学」,つまり「心の科学のように見えるけれども心の科学ではないもの」が広まることの問題,と言い換えることもできるだろう。

上記のパターンと区別されるものとして,心理学の理論や知見としてそれ自体は正しいものを利用しているが,利用の仕方に誤解や問題があるために生じる誤用もあろう。疑似科学的理論が関わるわけではないので見ただけでは問題がわかりにくいけれども,科学の持つ権威が誤って使用されるという意味では,心理学系疑似科学と同じくらい深刻な問題を生むこともありうる。誤解・誤用をするのが専門家なのか一般人なのかで意味合いが違ってくるだろうが,あわせて「心理学理論の誤解」という括り方をすることができるだろう。

本稿では,以上のうち,「心理学系疑似科学」と「心理学理論の誤解」について,具体例を見たあとで,何に気をつけるべきかを考えてみたい。

心理学系疑似科学

疑似科学が現代の哲学において学問的な検討の対象となるのは,1950年代から60年代にかけてのカール・ポパーの議論の影響が大きい。特に1970年代ごろまでは,科学と疑似科学の境界線を確定しようという問題は「境界設定問題」と呼ばれ,科学哲学の中心問題の一つという扱いを受けていた。ポパーがそのときにやり玉にあげたのが精神分析とマルクス主義だった[1]。もし精神分析が疑似科学であるというなら,これはまさに心理学系疑似科学の横綱格ということになるだろう。

ポパーが精神分析の問題だと考えたのが,どんな証拠がこようとも自分の理論の観点から説明をつけてしまえる,理論の柔軟さだった。フロイトの理論でいえば,イドと超自我の力関係でどんな行動も説明できてしまう。ある人がある言い間違いをすることが,ある潜在的な欲求が存在することの証拠となるのであれば,普通に考えればその言い間違いをしないことはその欲求が存在しないことの証拠になりそうなものである。しかしフロイト理論では,言い間違いをしないことは超自我による抑圧の証拠とみなされ,抑圧されるということはむしろ潜在的欲求の存在を支持する証拠ともなってしまう。このように理論が柔軟なのは一見いいことのように見えるが,反証されるリスクをおかさないということは,何も予測しないということであり,結局何も言っていないに等しい。

さて,ポパーはこのように間違う可能性のある予測を行わない(ポパーの用語でいえば「反証可能性のない」)分野を疑似科学に分類したが,その後の科学哲学では,この基準の妥当性も,精神分析が本当に反証可能性を持たないかどうかも,大きな議論の対象となった。そうこうするうち,そもそも科学と疑似科学をなんらかの境界線で線引きしようという問題設定(境界設定問題)自体が一種の疑似問題なのではないかというような意見も出てきて,議論そのものが下火となってしまったため,精神分析が科学かどうかという問題も科学哲学的には決着がついていない,というのが現状である。それもあって,精神分析系の学問を心理学に含めるかどうか,そしてそうした学問を心理学と呼ぶことを「心理学の誤用」に含めるかどうかは,心理学者の間でもおそらく意見が分かれるテーマだと思われる。本稿もこの問題について断定を下すことはしない。

科学哲学のさらに近年の動きとしては,科学と疑似科学の単純な線引きはできないことを認めた上で,疑似科学を見分けることの社会的重要性にかんがみて,疑似科学の特徴をチェックリスト形式で示そうという方向性の研究もある。つまり,ある領域の「科学度」をチェックリストを使って判断しようというわけである[2]。そうしたリストで重視されることの一つが,査読など,研究を批判的に検討する集団的なしくみの存在である。これは,社会的なレベルでの反証可能性と捉えることもできる。チェックリストの一項目としては,反証の重要性は今でも生きているわけである。

もう少し明確に心理学系疑似科学とみなされる領域の一例としては,血液型性格判断を挙げることができるだろう[3]。ABO型の血液型が性格と関係しているのではないかという仮説は,ABO型血液型が発見されて間もない1916年に原来復(きまた)という日本人の医師が最初に提案したとされる。この仮説を戦前に本格的にとりあげたのが古川竹二という心理学者だったが,彼の学説は一時支持者を集めたものの,批判にさらされて下火になっていった。1970年代になり,放送作家・文筆家の能見正比古が古川学説を発展させた「血液型人間学」を提唱し,現代日本の血液型性格判断ブームを引き起こした。その後,正比古の子の能見俊賢らが血液型人間学を受け継いでいくが,一般社会では能見父子らの名前は忘れられ,「A型は几帳面」「B型はおおざっぱ」といった言説だけがひとり歩きしていくことになる。就職面接の際に血液型を聞き,採否の判断に利用する,「血液型差別」のようなことも行われたと言われているが,そのあたりの実態ははっきりしない。

こうした血液型性格判断に対しては,心理学者からいろいろな批判が寄せられた[4]。性格を4つの類型に分類することが妥当かという概念的な問題,データにバイアスがかからないような工夫がなされていない問題,質問項目もバーナム効果などの認知バイアスが排除されるように構成されていないという問題など,さまざまな観点から心理学としての水準を満たしていないことが指摘されてきた。実際に心理学の正統な手続きでデータをとってみても,一貫した相関はなく,わずかに見られる相関もメディアの暗示による「知識汚染」と解釈できることがわかってきた[5]。そうした指摘もあって,近年は社会的にも血液型性格判断を目にする機会は減っているように思う。

血液型性格判断は果たして疑似科学だろうか。この問いにはちょっと複雑な答えが必要となるだろう。ポパーの基準でいえば,血液型とある種の性格類型に相関があるという仮説は反証可能である(実際に反証に近いことがされてもいる)ので,反証可能ではあり,その点で科学でないと言うことはできない。しかしもちろん,すでに触れたように,ポパーの基準そのものが科学哲学でも不十分な基準として批判されている。また,戦前の古川の時代はそもそも統計的な調査法が確立する前のことなので,現在の目からみて古川の研究が恣意的に見えるからといって科学でないと断定するのは一種のアナクロニズムにもなるだろう。ある学説が疑似科学とみなされるかどうかは学問の状況や支持者の態度など,時代状況にも左右されると考える方が妥当であり,かつては科学の一部だったものが時代とともに疑似科学になっていくということも十分おこりうる。この観点からいうと,1970年代以降において,きちんとしたデータにもとづいた相関が示されていないにもかかわらず「血液型と性格には相関がある」と積極的な主張を行うことや,そしてそうしたデータの裏付けがないことを指摘されても主張を変えない態度は,現代の血液型性格判断を疑似科学に分類する強い根拠になるだろう。

心理学理論の誤解

次に心理学理論の誤解にまつわる問題について考えてみよう。本特集のきっかけとなった「アンコンシャス・バイアス」の例は,心理学の理論的な概念が誤解された例であると言えるだろうが,一般に,心理学の学術的な概念が拡散する際には大なり小なり誤解が生じているのではないかと思われる。実験心理学では概念を操作的に定義した上で,その定義にそって相関の有無などを論じるのが一般的だと思われるが,そうした実験の成果が一般に拡散されるときには,その概念がどう操作的に定義されているかまでが丁寧に説明されるわけではない。また,心理学の実証的な研究では基本的には相関が明らかになるだけであり,因果の向きについては慎重な解釈が必要であるのに,安易に因果関係を表すものとして解釈されるといったことも心理学理論の誤解・誤用の定番のパターンだと考えられる。

こうした意味での心理学の誤解・誤用の例としては,IQを挙げることができるのではないだろうか。IQの誤用ということでまず思い浮かぶのは,グールドの『人間の測りまちがい[6]』で告発されたような,20世紀前半の人種差別や優生政策におけるIQ テストの利用が思い浮かぶ(本書は記述の正確さなどについてかなり批判もあるが,心理測定の負の歴史を一般の読者にも伝えた功績は評価されるべきであろう)。20世紀初頭には,IQテストは一般的知能を測定しているものと考えられ,この知能は遺伝的なものだと考えられた。そして,たとえば移民のIQテストの成績が低かったことが移民排斥の世論や立法化に影響したと考えられる。しかし,当時のIQテストの内容を今の目で見れば文化的な背景や課題への慣れがスコアに影響するのは明らかであり,これを生得的な能力と結びつける生物学的な解釈は「誤解」としか言いようがない。この事例は見方によっては「心理学系疑似科学」に分類できるかもしれないが,知能を知能テストで定義して共通する因子を取り出すところまでは今の目からみても心理学の方法としてさして瑕疵があるわけではなく,血液型性格判断と同列に論じることはできない。心理学者たち自身による「心理学理論の誤解」の例と見ることもできるだろう。

現代において,専門家がIQテストを誤解・誤用することは少ないだろうが,一般人による誤解や誤用はまだまだ広く見られるように思う。マスメディアやSNSで,「IQ」という言葉が「頭の良さ」と結びつけられたり,実際の知能検査と関係なくIQいくつという数字が持ち出されたり,IQの数値が「天才」などという言葉と結びつけられたり,「IQ」という言葉は身近にあふれている。しかし,そうした場面でこの言葉を使う側,聞く側それぞれが,IQテストの内容,そのテストで何が測定されていると考えられているか,そしてその測定されているものと一般に言うところの「頭の良さ」がどのくらい関係しているか,といった点をどの程度意識しているだろうか。

こうしたギャップについては村上宣寛『IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実[7]』が大変参考になる。村上によれば,まずそもそもIQテストの内容そのものが時代によって変遷しており,現在定番となっているウェクスラー知能検査はIQの算定方法が従前のものと大きく異なっている。また,現在の代表的な知能理論であるCHC[8]理論とウェクスラー知能検査を比べると,CHC理論で特定される知能の16の因子のうち5つしか測定されていないという。また,心理学者が興味を持つ意味での「知能」と一般社会で「頭が良い」とされる人の特徴にもずれがあることも指摘されている(後者では共感能力や対人スキルが高いことなどが「頭が良い」人の特徴に含まれるという)。こうした知識ぬきにIQを適当に見積もったり,その数値を「頭の良さ」などと結びつけたりするのは,IQについての何重もの誤解を再生産していることになるだろう。

IQについての誤解や誤用は,それがクイズゲームやドラマを楽しんだり,他愛ない会話をしたりする上でのスパイスとなる分には目くじらをたてるほどではないと思われるだろう。しかし,「頭の良さ」が生得的なものや遺伝的なものと考えられがちな傾向,そして人種などの集団間の遺伝的な差が差別を産んできた歴史を考えるなら,IQという概念が深く理解されないまま安易に用いられる現在の状況はあやうさをはらんだものであるように思える。

何に気をつけるべきか

以上のような誤用に対して,われわれはどのように対処すべきだろうか。と問いかけておきながらではあるが,まず念頭に置いておくべきことは,心理学系疑似科学にせよ心理学理論の誤解にせよ,必ずしも負の影響を持つものではなく,負の影響を持たないものについてはただ間違っているからといって対策をしなくてはいけないというものでもないということである。しかし,「血液型差別」のようなことが行われたり,あるいは過去に差別とむすびついた概念が安易に用いられたりといった状況においては,やはりなんらかの対応が求められるだろう。

心理学系疑似科学や心理学理論の誤解が社会へ悪影響を及ぼしている,あるいは及ぼす恐れがあると考えられるならば,その問題についての情報発信を行うことは心理学コミュニティの側の一つの集団的責任となるだろう。これは別に心理学に限ったことではなく,科学者共同体に現在期待される専門職倫理の一部として,科学知識の管理者としての役割があり,疑似科学や誤用への注意喚起もその責任に含めることができる[9]。ただ,これは個々の研究者が負うには重すぎる責任なので,学会などが主導するべきだろう。

そうした学術コミュニティ側の情報発信を受け止めるためには,市民の側にも最低限のリテラシーや心構えが必要となる。科学と疑似科学はなぜ区別されるのか,その区別ではどういう点が重視されるのか,定義された概念の安易な流用や相関と因果の混同などがどうして問題なのかなど,ある程度一般論として理解していないと,学術コミュニティ側が何を情報発信しているのかわからないということにもなるだろう。

もう一つ,現代におけるIQの例のように,心理学理論としては問題のないものが一般社会で誤解・誤用されるという場合には,コミュニケーション不全を避けるための努力が専門家と市民の両方に求められるだろう。誤解されそうな情報を発信する際には専門家の側はまずは丁寧に「使用上の注意」を説明すること,そして市民の側も意識的にそうした注意書きに目を向けることが求められるだろう。

しかし,認知バイアスが避けがたいのと同じで,ある種の誤解は起こるべくして起こるということもわれわれは念頭におくべきだろう。たとえばわれわれが「頭の良さ」を生得的な能力や遺伝と結びつけてしまいがちなのは,そうした「起こるべくして起こる」誤解の例といえそうである。知能がどの程度生得的能力なのか,どの程度遺伝するのかは,学術的な検討テーマとしては非常に重要だが,そうした検討の一部やそこで使われるデータの一部が一般市民に伝わったときに,いくら「使用上の注意」がついていたとしても,誤解を産まずにはすまないということは十分考えられる。

このような,誤解・誤用が生まれやすい学術的討論について,以前から提案しているのが「文脈の分業」である[10]。これは,学術的な討論は何でもオープンにすればいいというものではなく,不用意な影響を避けるためにある程度隔離された場所で行うべき場合もある,という考え方である。そうした討論の場は,誤解されやすい途中段階の情報は外部から遮断し,誤解されにくく加工された情報だけが外部に伝わる,という「半透膜」のようなもので保護される(具体的なしくみはいろいろありうるが,日常語と異なる学術用語の使用だけでもある程度アクセスを遮断する効果はある)。保護されることで,誤解を恐れずに自由闊達に討論することも可能になる。知能の生得性や遺伝をめぐる議論もまたそうした「文脈の分業」による対応が相応しいテーマと言えるだろう。こうした工夫を行うこともまた,学術コミュニティの責任として今後重要になっていくのではないかと思う。

文献

  • 1.カール・R・ポパー (1980) 『推測と反駁:科学的知識の発展』藤本隆志ほか訳,法政大学出版局(原著初版1963年)/伊勢田哲治 (2003) 『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会
  • 2.伊勢田哲治 (2019) 『科学・技術研究』8(1), 5–12.
  • 3.松田薫 (1991) 『「血液型と性格」の社会史』河出書房新社/草野直樹 (1995) 『「血液型性格判断」の虚実』かもがわ出版
  • 4.大村政男 (1998) 『新訂 血液型と性格』福村出版/佐藤達哉・渡邊芳之 (1996) 『オール・ザット・血液型:血液型カルチャー・スクラップ・ブック』コスモの本
  • 5. 山岡重行編 (2024) 『血液型性格心理学大全:科学的証拠に基づく再評価』福村出版
  • 6.スティーヴン・J・グールド,鈴木善次・森脇靖子訳 (1989) 『人間の測りまちがい:差別の科学史』河出書房新社(原著初版1981年)
  • 7.村上宣寛 (2007) 『IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実』日経BP社
  • 8.CHC: Cattell-Horn-Carroll
  • 9.伊勢田哲治 (2011) 『社会と倫理』25, 101–119.
  • 10.伊勢田哲治 (2025) 『倫理思考トレーニング』ちくま新書
  • *COI:本記事に関連して開示すべき利益相反はない。

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