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【特集】
ナラティヴ・アプローチと言葉の力

国重 浩一(くにしげ こういち)
Profile─国重 浩一
ワイカト大学カウンセリング大学院修了。臨床心理士(日本),カウンセラー協会員(ニュージーランド)。2013年にNPO法人ダイバーシティ・カウンセリング・ニュージーランドを立ち上げ,2019年に一般社団法人ナラティヴ実践協働研究センター(NPACC)を東京に設立。2023年9月より滋賀県を拠点に活動。
私たちは話し方を変えることができる。そうすることによって,周囲の世界を組み立てたり理解したりする方法もまた変えることができる。言葉は単に私たちの考えや感情や生活を代表するものではない。言葉というのは,重なり合っている相互作用の一部である。どのような言葉を使うかで,世界に対する考え方や感じ方が変わってくる。同様に,私たちが考えたり感じたりする方法が,自分たちの話し方に影響を及ぼす。どのような話し方をするかは,この世にどのように存在するかということの重要な決定要因となる。
だから,何を言うか,そしてどのように言うか,が大切なことなのだ。[1]
本稿では,オーストラリアのマイケル・ホワイトとニュージーランドのデイヴィッド・エプストンによって提唱されたナラティヴ・アプローチにおいて検討されてきたさまざまなことの中から「言葉」を取り上げる。言葉の意味は決して辞書的な定義で決まるのではなく,社会文化的な影響を受けながらも,関係性の中で調整されるので,対人支援の領域において言葉の意味に取り組むことの大切さについて,紙面が許す限り述べてみたい。
なお,ナラティヴ・アプローチは,使われる文脈に応じて,ナラティヴ・セラピー,ナラティヴ・プラクティス,ナラティヴ実践などと呼ばれることがある。「ナラティヴ」とは,語り,ストーリー,物語といった意味なので,一般的にも使われる言葉であるし,さまざまな領域や立場でナラティヴという言葉が利用されている。ナラティヴと名付けられているからといって,必ずしも同じ思想や前提を共有しているわけではない。本稿で述べる「ナラティヴ」についてもっと知りたいのであれば,「ナラティヴ・セラピー」「社会構成主義」という用語で検索することをおすすめしたい。
言葉の意味
私たちは,国語の授業で,言葉の正しい意味,本来の意味というものを学んできたし,言葉の正しい使い方があるのだということを学んできた。そうでなければ,国語の試験で,私たちの回答に正解不正解の判断をすることができないであろう。
ところが,ロシアの哲学者,思想家,文芸批評家であるミハイル・バフチンは,言葉の意味について次のように述べる。
言語における言葉の中立的,辞書的定義は,言葉の共通した特徴を確定し,その言語の話し手すべてがそれぞれ理解し合うことを保証するが,生きた対話のコミュニケーションにおける言葉の使用は,本質的に,常に個人的で文脈的なものである…言葉は何かを表現するが,その表現された何かはその言葉に内在するものではない。[2]
言い換えるとすれば,人が発する言葉を,辞書的な意味で受け取ることができないということである。つまり,言葉の意味は,常に文脈に依存する。しかし重要なのは,その文脈を形作っているのもまた言葉であるという点である。言葉は意味を生み出す文脈をつくり出す一方で,その文脈から大きな影響も受ける。この双方向的な関係性を理解することが必要になる。
さらに,私たちは,私たちを取り巻くさまざまなこと(現実)を言葉で表現できると考え,ものごとの本質や真理を言葉で表現しようとする。例えば,「本当の自分」「人の本質」「原因」などがあると信じ,探し求めて,言葉で表現しようとする。
しかし,ナラティヴ・アプローチでは,「言葉は,現実をありのままに写しとるものではなく」,さらに,「価値中立的な表明」をすることができないと考える[3]。つまり,客観的な描写をすることができないので,私たちが言葉を発する度に,何らかの立場,価値判断,意味づけを表明していることになる。
例えば「あの人はうつ病である」という表明は,単にその人の状態像を伝えることに留まらない。それは,私たちが住む社会や文化でどのようにうつ病がみなされているのかという価値判断,意味づけが含まれるのである。
1960年代に米国では,黒人解放運動の中で「Black is Beautiful」というスローガンが広まった。この運動の前と後では,「Black」の意味することに違いが生じた。Blackという言葉が肌の色が黒い人々に対する差別を象徴していたものが,威厳を象徴する意味合いに変わったのである。今も依然として,黒人に対する差別はなくなっていないものの,Blackという言葉を差別的な意味合いを持たせずに使うことができるようになっている。言葉が意味することは,社会的文化的な影響を免れないということである。
つまり,私たちが用いる一つひとつの言葉には,社会的,文化的な意味合いが染み込んでいる。たとえ,相手に「ここにリンゴがあるよ」と伝えることでさえ,「リンゴは美味しい果物」であるという価値判断を含みながら,さらには「相手に食べたい?」といったことを示唆することになる。単にリンゴがどのようなものかを表現しているだけでなく,誰かに向かって伝えるとき,その相手に,何か検討したり,行動を促したりする影響力も持つことにもなるのである[4]。
ここで述べたいのは,辞書でさえ,時代の流れと共に,新しい言葉や意味が付け加わっていくのだが,日々の人とのやりとりにおいては,その場の文脈に影響を受けながら,よりダイナミックに意味が変わっていく。そして,その意味は,相手に伝わり,相手に何かを示唆したり,考えさせようとしたり,行動を促させたりするのである。
言葉の意味は,関係性の中で調整される
言葉の意味は,その時々の社会的な文脈に大きく影響を受けるということについてもっと詳しく見ていこう。同じ言葉であったとしても,数十年前と今の意味は同じであることはない。さらに,先ほど述べた黒人解放運動のような出来事などがあり,言葉の意味が大きく変わるときがある。
ここで「自閉症」という言葉を考えてみたい。自閉症という概念や診断名は,時代と共に変化している。自閉症は3歳になるまで言葉を話すことができないという状態像をもって診断されてきた。その後,精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM-4)で「アスペルガー障害」という診断名が採用されたこともあって,自閉症という描写では到底受け入れられないと感じていた人たちも,この名称であれば,受け取れることがあったと見ていた。
ところが,その名称も「アスペ」などと省略され,一般化されていくと,そこに伴う意味合いも変化していった。最近,ある場所で「アスペルガー」という言葉を使ったら,そんな差別的な言葉を使うのを聞いてショックを受けた,と言われたことがある。それなら,どの表現なら今は大丈夫なのかと尋ねると,「自閉症」の方がまだいいということであった。
私は,多くの人たちが「自閉症」という言葉に拒否反応を示していた時代を知っているので,「自閉症」という用語を使うことはためらう。そのため,現時点では「ASD(自閉スペクトラム症)」という言葉をとりあえず使うようにしている。しかし,ASDの意味合いも時代と共に移り変わっていくであろう。
日々のやりとりの中でも,言葉の意味は絶えず関係性の中で調整される。例えば,ある人が何らかの会合に遅刻したとしよう。その遅刻したという出来事にまつわる意味づけは,「遅刻した」という表現に内在するものではない。それは,社会的な文脈で意味づけられようとする。日本のように遅刻することはもってのほかという文化的な価値観が強い国では,たいへんなことをしてしまったとみなされるが,遅刻することに寛容な文化も世界にたくさんある。さまざまなことで日本に住んでいて息苦しさを感じるのであれば,世界に目を向けてもらいたいと思う。私たちの悩みを生じさせる考え方は,他の文化圏では,重大な意味を与えられていないことを知るのは,助けになると思う。
その「遅刻したこと」にどのように反応してもらえるかによって,その意味が変わる。遅刻したことに叱責するような人の前では,それには重大な失敗という意味づけが与えられることになる。一方で,遅刻したことは,何らかの要因で遅刻してしまったのではないかという心配をしてくれる人の前では,遅刻したことに対して過度の失敗感を抱くことはないであろう。このような理解が生じると,私たちは自分たちに問いかける必要性も生まれる。私は,人にどのように反応して生きていきたいのであろうか,と。
意味は関係性の中で調整することもできる。相手が提示した意味づけを,私たちは受け取ることもできるし,受け取らないこともできる。あるいは,その意味づけを相手と一緒になって調整することもできるのである。社会構成主義を提唱しているケネス・ガーゲンは,お互いが共に意味の生成に取り組むことを「協応行為(co-action)」と呼んだ[5]。社会構成主義とは,本稿で論じている言葉の意味は関係性の中で調整されるということを中心に取り組む哲学的な姿勢のことである。
相手が言ったことをそのまま受け取る必要はないが,単に拒否する必要もない。相手が発した言葉の意味を,相手に確認したり,自分の受け取り方を示したりして,相手のさらなる反応を求めることができる。相手が別の言葉で再度伝えてくれるのであれば,その別の言葉は,別の意味を伝える。そして,その言葉に反応することによって,意味を調整することができるのである。
近年,対話の重要性が強調されるようになってきた。対話とはお互いが言いたいことを言うということだけでは,その重要さが見えてこないであろう。対話は,相手の言葉を聞き,その言葉に反応すると,相手がその反応を聞き,さらに反応を返す。このようにお互いに反応し続けながら,言葉を紡いでいくことを通じて,新しい意味が生まれる場にできるのだ,という側面において,対話の重要性を汲み取れるのである。
意味は人のアイデンティティを創り上げる
ここで,言葉が意味することは,人のアイデンティティにつながるのだということを見ていく。
ナラティヴ・アプローチや社会構成主義は,「現実があって,それを言葉で表現する」という従来の考え方を逆転させ,「言葉が現実を構成していく」とみなす。これまで見てきたように,言葉そのものに意味が固定されているのではなく,言葉は,社会的,文化的な文脈と,人との関係性の文脈において,変わるものであるとする。意味が変わった言葉は,別の世界観を提示することになり,その新しい世界観で私たちはものごとを見ることができるようになる。
意味は経験を形作る。同じ出来事でも,「失敗」という経験をするのか,「うまくいかなかった経験から学んだ」という経験をするのかが異なっていくということである。
すると,その意味は,その人がどのような人であるのかという,その人のアイデンティティを形作っていく。つまり,意味は「失敗した人」または「うまくいかなかった経験から学ぶ人」を構築していく。人が人生を送っていく上で,どちらのアイデンティティを持っていくことがより助けになるのかについては,明確であろう。
対話によって,出来事に対する意味づけが変わるという理解が,対人支援に示唆していることは大きい。起こった出来事そのものを変えることはできない。しかし,その出来事が「どのようなことであったのか」という意味づけについては,変化する余地が常に残されている。過去は変えられないという話を聞くことがある。確かに起こったことをなかったことにすることはできない。しかし,それが「どのようなことであったのか」についての意味合いは,常に変化する余地があるのである。それは,対人支援者の関与なしにも生じうるほど,変わるものなのだ。出来事が起こってすぐのとき,少し時間が経ってからのとき,そして,数年の月日が経過したときでは,その人にとって,その出来事がどのようなことであったのかの意味合いは変わっていっているはずである。
そして,自分に起こったことを安心できる相手に話して,ケアしようとする気持ちから反応してもらうとき,起こった出来事の意味合いがさらに変化するであろう。この取り組みは,相手に異なる意味づけを持たせるような教育的なものである必要はない。それよりも,相手が作り上げてきた意味合いを一緒に見ていき,さらに他の意味づけをすることができないのか一緒に検討するのである。
どのような時にも人は反応する
出来事の意味づけを変えようとする試みは,目新しいものではなく,さまざまなところで取り組まれている。何か重大な出来事があった場合にも,それについて,「気にしないでいいのよ」「仕方がなかった」などのようなありふれた表現も,意味づけを変えようとする試みであると見なすこともできる。つまり,その出来事は「気にしなくてもいい程度のものである」という意味づけを提示しようとしているのである。
このような言葉が異なる意味づけに貢献することもあれば,そうならないこともあることも多くの人は気づいているであろう。ナラティヴ・アプローチにおいては,出来事をめぐる異なる意味合いを探索するときに,人の反応をめぐる細部に注意を向けていく。
ナラティヴ・セラピーの原型を作ったホワイトは,トラウマのような身体的にも精神的にも苦痛を与える出来事に対して,人は,単に受動的なのではなく,なんらかの反応をするのだと主張する。
誰もトラウマを単に受動的に受けているのではない。人々は常にトラウマを防ごうとする手段を講じる。また,トラウマを防ぐことが明らかに不可能である場合でも,トラウマを少しでも軽減しようとしたり,トラウマが人生に及ぼす影響を軽減しようとする手段を講じたり,自分にとって大切なものを守ろうと努力する。圧倒的なトラウマに直面しても,人々は自分たちが価値を置くものを守り,維持しようと努力するのである。[6]
ホワイトの見解を参考にすると,次のような視点で私たちは人の反応を見出すことができるであろう。
問題を解決した(成果のあったこと),問題を解決しようと行動を起こした(行動までつながったこと),問題を解決したいと思った(思いが生じたこと),問題に対して身体や気持ちが反応した(身体的な反応が生じたこと),問題があったとしても,自分が大切にしているものを守ろうとしたこと。
読者のみなさんがどのような問題,自分を苦しめる出来事を想像するのかはわからないのだが,このような視点で問題や出来事に反応したのかについて問いかけてくれたら,一人では思いつかなかったような自分が見えてくる可能性があるのは想像できるであろう。
自分を苦しめる出来事があった。自分は何もできないと思っていた。ところが,ナラティヴ・アプローチの視点が示すのは,あなたは,気持ちや身体的な反応を通じて「抵抗」したのではないだろうかということである。さらには,それは,あなたが自分の大切にしているものを守ろうとしたことなのかもしれないという視点を通じて,起こった出来事の意味合いを探索しようとするのである。
自分を苦しめている問題や出来事は確かにあるものの,そこで,自分は何らかの反応をしていたのだということを表明し,その反応が意味することを考えることによって,これまでとは違った意味合いを持って,過去の出来事を見られるようになる可能性が高まる。
当然のことながら,人によっては,これまでの意味合いが実に強く,新しい意味合いを手元に置いて人生を送るようになるまでには,多くの対話と時間が必要になる。一度に意味合いが変わらないからといって,失望する必要もない。時間をかけて少しずつ意味が変わっていくことに取り組むことが重要なのである。
これまで見てきたように,対話とは言葉を通じて,新しい現実をつくり出していく取り組みなのである。言葉は,世界をつくり出すことができるのである[7]。
文献
- 1.モンク,G. 他編/国重浩一・バーナード紫訳 (2008) ナラティヴ・アプローチの理論から実践まで:希望を掘りあてる考古学.北大路書房.
- 2.Bakhtin, M. M. (1986) Speech genres and other late essays. University of Texas Press.
- 3.ガーゲン,K. J./東村知子訳 (2004) あなたへの社会構成主義.ナカニシヤ出版
- 4.オースティン,J. L./飯野勝己訳 (2019) 言語と行為:いかにして言葉でものごとを行うか.講談社.
- 5.ガーゲン,K. J./鮫島輝美・東村知子訳 (2020) 関係からはじまる:社会構成主義がひらく人間観.ナカニシヤ出版.
- 6.White, M. (2004) Int J Narrat Ther Community Work, 2004(1), 45–76.
- 7.スワート,S./国重浩一・飯島邦子・松本加奈子 (2013) 世界を再著述する.北大路書房.
- *COI:本記事に関連して開示すべき利益相反はない。
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