大正末の適性検査 ─「性能検査」という言葉をご存じですか?
吉村浩一(よしむら ひろかず)
Profile─吉村浩一
京都大学大学院教育学研究科教育方法学専攻博士課程満期退学。京都大学教養部助手,金沢大学文学部講師,助教授,明星大学人文学部教授を経て,2003年より現職。専門は知覚・認知心理学。著書は『運動現象のタキソノミー』,『逆さめがねの左右学』(いずれもナカニシヤ出版)。
現在も職業適性検査は活用されていますが,かつて日本の心理学界で適性検査の研究が盛んに行われていた時期がありました。本誌72号で紹介した安藤謐次郎が活躍した時代です。海軍在職中の安藤は1923年に『心理学的適性検査法』上下2巻を著しました。海軍内のさまざまな職種に携わる人たちの職業適性を査定したものです。2年後には,協調会産業能率研究所の増田幸一が『適性考査法要領』を著し,職業相談所などでの普及に貢献しました。彼らの業績を科学的(心理学的)に支えたのは,東京帝国大学の心理学,特に航空研究所に席を移していた松本亦太郎や航空研究所所員を兼務していた淡路円治郎でした。安藤や増田は,器用さや感覚の鋭さなど心身機能を多面的に測定しましたが,そこで用いられた適性検査器械のほとんどは心理学実験器械と言ってよいものでした。安藤は海軍から派遣されて,また増田は東京帝国大学心理学教室の学生として松本亦太郎らから心理学実験の薫陶を受けていました。彼らが用いた器械類は,山越工作所という心理学実験器械を製造販売していた会社の1931年カタログ『性能検査法 改訂第八版』に記録されています(写真1)。
東京帝国大学の淡路(1927)は,同じころ『職業心理学』という著書を著しました。その中で彼は,「適性」ではなく「性能」という言葉を使っています。その理由は,彼の著書中にある次の記述から読み取れます。淡路は,「性能研究それ自体は,本来,必ずしも職業活動その他への応用を目的として行われるべきものではない。それは,個性心理学または差異心理学等の理論心理学の本領に属」(p.265)すると考えていました。彼は,「性能」とは,職業に限らず心身機能の習得的個人差全般という広い意味で捉えていたようです。それに対し,「適性」はその一部である職業に関する性能と位置づけていました。
このように「適性」と「性能」の使い分けに気をつけると,安藤研究所・島津製作所・山越工作所が製造販売していた「適性検査器械」と「性能検査器械」の違いが見えてきます。「適性検査器械」の具体的項目については,左に紹介した写真1のほか,安藤(1923)と増田(1925)の書物にほとんどすべての器械の写真が掲載されています。それに対し,「性能検査器械」の製造販売は,それより少し時期が遅れ,1930年代に入ってから盛んになります。
ところで,「適性検査器械」や「性能検査器械」は現存しているのでしょうか。「性能検査器械」のほうは,時代が少し下ることもあり,かなり残っています。そのうち山越製のものは,山越工作所のカタログ『個性調査性能検査法』(1932)に16項目がリストアップされています。その中で現存品は以下の通りです。「記憶検査器(KY式記憶検査器)」(関西学院大学と東北大学),「選別力検査器(カード分類装置)」(京都大学と新潟大学),「注意力検査器(シャッター式瞬間露出器)」(京都大学と東北大学),「構成力検査器」(京都大学と東北大学),「空間弁別検査器(KY式精密目測計)」(関西学院大学と東北大学),「光度弁別検査器」(東北大学),「反応検査器(サンフォード氏振子測時器)」(関西学院大学),「作業速度検査器(棒挿盤)」(関西学院大学),「技能学習力検査器(鏡像描写装置)」(東北大学)です。島津製作所の性能検査器械は1936年の『島津理化学器械目録第300号』に14項目あげられていますが,大学の研究室には「瞬間露出器(ネチャーエフ型)」(関西学院大学)が残るだけで,ほかには島津製作所の創業地である京都の島津製作所創業記念資料館に3点残っています。さらに,日本以外にも,当時の台北帝国大学の継承校にあたる台湾大学に3点残っています。当時,台北には島津製作所の支店が開設されたばかりであったことが関係していたのかもしれません。
さらに古い適性検査器械のほうも,当時の旧制高等学校であった新潟大学と金沢大学を中心に13点残っています。それらの中から,「大小反応検査器」を写真2に示しました(写真1のリスト中の15にあたります)。年配の心理学者の中にはこの器械の改良品を見られた方がおられるかもしれません。この器械はその後も作られ,かなり普及しました。にもかかわらず,のちの「性能検査器械」には含まれませんでした。写真2の「大小反応検査器」が「適性検査器械」である証拠は,正面に貼られたプレートです(写真3)。他の12点も,ほとんどに同じ証拠があります。この山越工作所の製品プレートには,「44290」というさらに興味深い歴史が刻まれています。この数字は,安藤謐次郎がこの器械に対して得た特許番号です。海軍軍人であった当時の安藤は,自ら特許を得たこの器械の製造販売権を山越工作所に委ねる契約を社長の山越長七と交わしました。そうした歴史が,現存品のプレートから読み取れるわけです。
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