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【特集】

自己と他者を区別する

田中彰吾
東海大学現代教養センター 教授

田中彰吾(たなか しょうご)

Profile─田中彰吾
2003年,東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程修了。博士(学術)。東海大学総合教育センター講師,ハイデルベルク大学精神社会医学研究センター客員研究員を経て,2015年より現職。専門は現象学,理論心理学。著書は『生きられた〈私〉をもとめて:身体・意識・他者』(北大路書房),『自己と他者:身体性のパースペクティブから』(東京大学出版会,近刊),Body schema and body image: New directions(共編,Oxford U.P.,近刊)など。

ひとは不思議な存在である。以下で見るように,理論的には自己と他者の区別がない次元を想定できるにもかかわらず,現実に自己と他者の区別がつかなくなる経験はほとんど生じることがない。それどころか,自己と他者を区別したうえで他者の心的状態を的確に理解することさえできる。自己と他者を区別する心の作用は,どのようなメカニズムに依拠しているのだろうか。ここでは,神経現象学的な考察に依拠してその一端を探ってみよう。

ミラーニューロンの発見

考察の最初に取り上げるべきなのは,やはり,ミラーニューロンの発見という歴史的な事実だろう。よく知られている通り,ミラーニューロンはサルの運動系を研究する過程でリゾラッティらによって発見された(di Pellegrino et al., 1992)。この発見が大きな関心を呼んだのは,他者がある行為をするのを見ているときも,自分がある行為をしているときも,鏡映しのように腹側運動前野の特定のニューロンが同じように反応するからである。

ミラーニューロンの活動は,手でものをつかむ行為に対応して見つかったが,後に,食べたり話したりするさいの口の動作に対応するものも見つかったり(Ferrari et al., 2003),ゴールが明確なら動作の途中が見えなくても反応することが明らかにされた(Umilta et al., 2001)。他方で,上側頭溝,下頭頂葉との解剖学的な結合が見られることもわかり,ミラーニューロン・システムとして位置づけられ,他者行為の認知や模倣において重要な役割を果たしていると考えられるようになった(Rizzolatti et al., 2001)。同様のシステムは人間にも備わっていると想定され,他者のゴール指向の行為を見るとき,その意図を理解するうえで重要な機能を果たすと考えられている(リゾラッティ&シニガリア,2009)。

ミラーニューロン・システムについて留意しておきたいのは,自己由来の行為であっても他者由来の行為であっても,システムが関与する範囲では同じしかたで表象されているということである。簡潔に言いかえると,中枢のあるレベルでは「行為」だけが表象され,それが自己の行為であるか他者の行為であるか区別されていない可能性がある。

させられ体験のリアリティ

日常の経験と照らし合わせてみるとこれは不思議なことだろう。自分が行為しているのか自分以外の他人が行為しているのか,区別がつかなくなるような場面は基本的には存在しないからだ。比較的よく知られている数少ない例外は,統合失調症の症状の一部として生じることのある「させられ体験」(被影響体験)である。

統合失調症では,そもそも自己の統合が何らかの外的な存在によって脅かされる状態が症状の根底にある(e.g., Sass, 2014)。そのため,たとえば「他人が自分を陥れようとしていて嫌がらせを受けている」という被害妄想や,「周囲で自分の悪口を言っているのが聞こえる」という幻聴など,自己と他者の境界のゆらぎを反映する症状が現れる。もちろん,妄想や幻聴に現れる他者は実在の他者とは限らず,電波や宇宙人や秘密組織のように得体の知れない存在として経験されることもある。画家E・ムンクの著名な作品『叫び』は,当時彼自身が苦しんでいた統合失調症の症状の苦しさをよく伝えている。

ムンク『叫び』(1893年) Wikimedia Commonsより
ムンク『叫び』(1893年) Wikimedia Commonsより

させられ体験もこうした自他の境界のゆらぎを反映した妄想の一種として生じるのだが,症状がもっぱら行為を通じて経験される点に特徴がある。患者は,自己の身体が他者によって操られていると感じる。行為の意図そのものが外的な存在に由来するものとして経験されることもある(Vahia & Cohen, 2008)。つまり,自己とは異なる外的なエージェンシーによって自己がコントロールされる経験にこの症状の核心がある。たとえば,精神病理学者の木村(2006)が患者自身の訴えとして記述している症状に次のようなものがある。

ぼくはサイコ機械です。サイコ機械はM先生とT先生です。サイコ機械はぼくの体の中にはいって,こうやって〔紙に字を書く〕ぼくの手を使って連絡してくるのです。それはぼくなのです。トポロジー的な場の転位なのです。ぼくはぼくの内部において旅をするわけです(p. 307)

二人の先生として表象される「サイコ機械」は,患者の体をあやつり,その手を動かして字を書かせるという。まさに,外部のエージェンシーによって身体を動かされ,意に反してある行為をさせられる経験として,この症状が生じていることがわかる。ただしその一方で,後半の記述では「それはぼくなのです」「ぼくはぼくの内部において旅をする」という表現で症状が語られている。つまり,させられ体験の最中にあっても,自分の経験であるという意識(そして自他弁別の認知)もかすかに保たれているのである。この点について,どのように理解すればいいだろうか。

エージェンシー以外の要因

ミラーニューロンの機能をさせられ体験のように特異な症状に重ね合わせ,自己と他者の区別には二段階の情報処理,すなわち①行為の表象の形成過程と,②行為主体が誰かを決定する過程が脳内で進展しているとする主張が見られる。たとえば,Georgieff & Jeannerod(1998)は「Whoシステム」というモデルを提案している。Whoシステムは,行為を表象する過程と,その行為を自己と他者のどちらかに割り当てる過程とで構成されている。Jeannerod & Pacherie(2004)はこの考えを発展させ,誰のものか決まっていない,いわば裸の「行為の意図」を構成する神経活動と,その行為を実行しているのが「誰か」を決定する神経活動によって,自他いずれかに帰属するエージェンシーが生成するとしている。また加えて,この二段階はそれぞれ,(a)誰のものでもない純粋な「行為の意図」に気づく経験と,(b)意図に対応する行為をしているのが誰の身体であるかに気づく経験(エージェンシーの経験)に対応すると指摘する。

だが,この説明は,中枢の神経活動を優先させることで現実の経験から離れすぎてはいないだろうか。木村が記述している事例では確かにエージェンシーの帰属先が問題になっているが,それは他者になったり自己になったりして揺らいでいるのであって,誰のものでもない中立的な行為の意図が最初に経験されているようには見えない。加えて,患者は「ぼくの体の中」「ぼくの手」という表現のしかたで,動いているのが自己の身体であるという認知を依然として保っているように見える。

角度を変えて,私たちの日常の経験から考えてみよう。水を飲もうとしてペットボトルに手を伸ばすさい,それがどれほど自動的で無意識に近い経験だったとしても,手を伸ばした後になってそれが自分の行為だったことに気づくことはない。通常の場合,「行為の意図」は最初から「私の行為の意図」として経験されている。させられ体験では,誰の行為の意図であるかが混乱した状態で行為が始まっているが,それでもJeannerodらが主張するように,誰のものでもない「裸の意図」が存在するようには見えない。それに,させられ体験の場合でさえも,動いているのは自己の身体である,という認知は保たれている。

ミラーニューロン・システムの活動だけを考慮するなら,確かに脳は中立的に「誰かの行為」を表象しているのかもしれない。ただし,他者の行為が主として視覚情報として与えられるのに対して,自己の行為は視覚情報よりはむしろ運動情報を中心にして与えられるのであって,固有感覚や運動感覚を通じたフィードバックがつねに作用している。それゆえ,仮にエージェンシーが神経活動のレベルで「誰」の情報を持たないとしても,動いている身体については「私の身体」という所有性の感覚(sense of ownership,所有感)がともなっているはずである。自己と他者の区別には,エージェンシーだけでなく身体のオーナーシップも深く関与しているのである。

最小の自己意識

記憶や時間性など不必要な要因をすべて取り除いてもなお残存する最小の自己意識は,現象学では「ミニマル・セルフ(minimal self)」という概念で呼ばれている(Zahavi, 2005)。ミニマル・セルフがエージェンシーの感覚(sense of agency,主体感)とオーナーシップの感覚(所有感)によって構成されていると指摘したのはGallagher(2000)である。両者は,通常の行為では深く連動していて別々に経験されることはない。主体感とは,「私がこの行為を引き起こしている」という,行為にともなう暗黙の(反省以前の)感じを指す。所有感もまた暗黙のうちに行為に付随するもので,「この行為は私の経験である」という感じを指す。

両者が分離して生じるのは,不随意に身体運動が引き起こされる場合である。たとえば階段を登っている場面ならば,「登るという行為を引き起こしているのは私である」という主体感も,「この行為は私の経験である」という所有感も保持されている。しかし同じ場面で突然後ろから押されて倒れると,おそらく倒れているあいだも「これは私の経験である」という暗黙の感じは維持されているが,「私が引き起こしている」という主体感は生じない。

だとすると,神経活動のレベルで見ても,主体感と所有感には共通の成分と独自の成分があると推測できる。随意でも不随意でも,身体が動いている限り,動きにまつわる視覚的,固有感覚的,運動感覚的なシグナルが中枢へとフィードバックされ続けることを考慮すれば,これらの求心性シグナルは,所有感と主体感の両者にとって重要な成分だろう。一方で,随意運動のみにともなう成分として,運動制御に利用される遠心性シグナルがある。こちらは,主体感にとって重要な成分である(Tsakiris & Haggard, 2005)。

では,所有感のみに独自の成分はないのだろうか。ラバーハンド錯覚(Botvinick & Cohen, 1998)のように,身体を静止させて所有感を操作する行動実験のパラダイムを利用すれば,主体感から分離して成分を特定することもできるだろう。Tsakiris, Longo & Haggard(2010)は,主体感なしで所有感が生じている場面では大脳皮質正中内側部構造(cortical midline structure)が,逆に所有感なしで主体感が生じている場面では前補足運動野(pre-supplementary motor area)がそれぞれ活性化していると指摘している。

皮質正中内側部構造は安静時の内省状態で活動が高まる,いわゆるデフォルトモードネットワークを構成する主要な領域である。つまり,外界に注意を向けているよりは,むしろ,内臓とそれに連動する情動も含め,身体内部に由来する求心性シグナルが優位の状態に対応している。その意味では,たんに身体の所有感に対応しているというより,「身体が存在する」という背景的感覚に対応して,「私が存在する」という基底的な自己意識に関係しているように思われる。Northoff & Bermpohl(2004)も,正中内側部構造と自己意識との相関を示唆している。

おわりに

以上から,次のようにまとめられるだろう。自己と他者を区別する認知は,させられ体験に見られるように,行為にともなう主体感のレベルでは混乱することもある。また,ミラーニューロンの活動が表情などの情動表現を反映する場合は,「自他の融合」として感じられる経験も引き起こすだろう。

その一方で,所有感はたんに固有感覚や運動感覚といった体性神経系だけでなく,自律神経系に由来するより広汎な求心性シグナルとも絡み合って,きわめて頑健な自己意識を構成していると思われる。哲学者のFuchs(2018)は,従来のミニマル・セルフよりも一段深い,「生存感(feeling of being alive)」に由来する自己を構想している。このレベルでの自己は,そう簡単に他者との区別を失うことのないメカニズムを備えているだろう。

文献

  • Botvinick, M. & Cohen, J. (1998). Rubber hands 'feel' touch that eyes see.  Nature, 391 , 756.
  • di Pellegrino, G., Fadiga, L., Fogassi, L., Gallese, V., & Rizzolatti, G. (1992). Understanding motor events: A neurophysiological study.  Experimental Brain Research, 91 , 176-180.
  • Ferrari, P. F., Gallese, V., Rizzolatti, G., & Fogassi, L. (2003). Mirror neurons responding to the observation of ingestive and communicative mouth actions in the monkey ventral premotor cortex.  The European Journal of Neuroscience, 17 , 1703-1714.
  • Fuchs, T. (2018).  Ecology of the brain: The phenomenology and biology of the embodied mind . Oxford University Press.
  • Gallagher, S. (2000). Philosophical conceptions of the self: Implications for cognitive science.  Trends in Cognitive Sciences, 4 , 14-21.
  • Georgieff, N., & Jeannerod, M. (1998). Beyond consciousness of external reality: A “Who” system for consciousness of action and self-consciousness. Consciousness and Cognition, 7, 465-477.
  • Jeannerod, M., & Pacherie, E. (2004). Agency, simulation and self-identification. Mind & Language, 19, 113-146.
  • 木村敏(2006)『自己・あいだ・時間』筑摩書房
  • Northoff, G. & Bermpohl, F. (2004). Cortical midline structures and the self.  Trends in Cognitive Sciences, 8 , 102-107.
  • Rizzolatti, G., Fogassi, L., & Gallese, V. (2001). Neurophysiological mechanisms underlying the understanding and imitation of action. Nature reviews.  Neuroscience, 2 , 661-670.
  • リゾラッティ,G.& シニガリア,C./柴田裕之(訳)(2009)『ミラーニューロン』紀伊國屋書店
  • Sass, L. A. (2014). Self-disturbance and schizophrenia: Structure, specificity, pathogenesis.  Schizophrenia Research, 152 , 5-11.
  • Tsakiris, M. & Haggard, P. (2005). Experimenting with the acting self.  Cognitive Neuropsychology, 22 , 387-407.
  • Tsakiris, M., Longo, M., & Haggard, P. (2010). Having a body versus moving your body: Neural signatures of agency and body-ownership.  Neuropsychologia, 48 , 2740-2749.
  • Umilta, M. A., Kohler, E., Gallese, V., Fogassi, L., Fadiga, L., Keysers, C., & Rizzolatti, G. (2001). I know what you are doing. A neurophysiological study.  Neuron, 31 , 155-165.
  • Vahia, I. V. & Cohen, C. I. (2008). Psychopathology. In Kim. T. Mueser & D. V. Jeste (Eds.),  Clinical handbook of schizophrenia . pp.82-90. Guilford Press.
  • Zahavi, D. (2005).  Subjectivity and selfhood: Investigating the first-person perspective . MIT Press.

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