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心理学ライフ
追憶─フェスティンガー先生
木下冨雄(きのした とみお)
Profile─木下冨雄
1956年,京都大学大学院修士課程修了。専門は社会心理学,リスク科学。文学博士。著書は『リスク・コミュニケーションの思想と技術』(ナカニシヤ出版),『記号と情報の行動科学』『法の行動科学』(いずれも共編,福村出版)など。
心理学者であればその専門分野を問わず,フェスティンガー(L.Festinger)の名を知らぬ人はないだろう。事実,フロイト,ピアジェ,スキナー,バンデューラなどと並んで,フェスティンガーを20世紀最大の心理学者の一人として挙げる人がいる。しかしながらこのフェスティンガーが日本をたびたび訪れ,研究者相互の交流を深めていたことを知っている人は意外に少ないのではないか。この小論は,私がフェスティンガーとの交流の中で得た学問的なインパクト,さらには人間的な深みを語ることを目的としている。
学問的なインパクト
フェスティンガーが初来日したのは1960年4月のことである。東大文学部の外国人講師という肩書きであった。この時の滞在期間は数ヵ月と短かったが,その間東大での講義のほかに,池内一,水原泰介,三隅二不二の諸先生を始め,全国の社会心理学者を中心にした10人足らずの小人数セミナーが数回開催された。私は当時京大の助手であったが幸いにもメンバーに招いて頂いた。
セミナーで話題の中心となったのは認知的不協和の理論である。フェスティンガーが代表作の一つである『A theory of cognitive dissonance』を出版したのが1957年のことであるから,話題がそこに集中したのは当然であろう。しかし日本側からの質問は「この理論はフラストレーション理論とどこが違うのか」といった少し的外れのものが多かった。
私がフェスティンガーと個人的に親しくなったのは,その年の5月に京都で開催されたセミナーがきっかけである。当時京大には私以外に社会心理学者がいなかったので,京都を代表して何か発表せよと上司から命じられた。そこで話したのが私の卒論や修論を中心とした噂の伝達実験である。フェスティンガーは非常に関心を寄せてくれ,「認知的不協和理論もその発端は噂の研究にあったのだ」と,私の実験手法やデータの解釈に至るまで根掘り葉掘り質問攻めにした。だが彼の学問的な考え方の神髄に触れることができたのは,むしろ「放課後」のドライブ途上や飲み屋のカウンターにおける雑談の席である。
フェスティンガーの学問的な基盤に,その師であるレヴィンの「場理論」的な影響があることは間違いないが,彼の発想はそれをさらに超えた,自己,他者,環境全てを包摂した「動的社会システム論」というべきものであろう。そして彼は,このシステムの構成要素が共変動しながら動的平衡を保っていると考えた。dissonance reduction というのは,その適応形態の一つなのである。フェスティンガーとの会話の中で,彼の頭の中にあるこのような考え方が,私の中にも次第にイメージ化されてきた。
フェスティンガーというと認知的不協和理論や社会的比較理論など,社会心理学の理論家としての側面を取り上げられることが多いが,実は彼の初期の仕事は数理的な研究や欲求水準の研究など基礎心理学的な研究が少なくないのである。研究フィールドが社会心理学に拡がったのは1950年近くになってからであろうか。
そういう学問的素地があるので,彼の研究は現実社会での調査に留まらず,広く野外実験や厳密な実験室実験にも及んだ。その意味で彼は理論と実証のほどよいバランスを保つ研究者なのである。ただ彼は数理・測定論的,さらに理論的厳密さを保ちながらも,そこに内在する曖昧さをある程度許容したほうが研究の発展に重要であることを主張していた。この「柔らかい」発想は私にとっても極めて親近性が高く,すんなり共有することができた。
もう一つ忘れられないのが,文化的要因の取り入れに関する考え方である。フェスティンガーはかつて公共団地における家屋の物理的配置関係が対人関係の成立にどのように作用するかを明らかにしたが,その追試が日本で行われたことを知ってこうコメントした。「私の研究を追試して頂くのは光栄である。しかし私の場合は人口モビリティが高いアメリカという風土の中で,見知らぬ者同士をいかにして短期間に親しくさせるか,その工夫を住宅設計の場で行えないかという発想が背景にあった。ところが日本ではモビリティがむしろ低く,時には職場における対人関係が,社員住宅という形で日常的生活にまで持ち込まれて煩いという話も聞く。だとすれば日本で行うべき研究はそちらの方向ではないのか」。私はこのフェスティンガーの意見に大きな感銘を覚えた。
ところがフェスティンガーは1964年頃,突然,社会心理学者としての筆を折り基礎心理学者に回帰した。彼によれば,自分が取り組んできた人間研究の進歩が遅く,印象的な知見発表も少なくなった。自分の研究もマンネリ化してきて,ふたたび生産的な仕事を進めるには新しい分野からの刺激を必要としたのだという。それに彼が苦慮したのは社会心理学における数々の「倫理問題」や,ベトナム戦争後,若者の反乱として盛り上がった「伝統的価値観への疑念」であった。この問題を解決するには,文明史的に改めて人間とは何かを根本から考察する必要がある。1979年頃から彼が始めた考古学や歴史学の研究は,この新しい大構想を解くためだったのである。
ただこの大転換は同学者の間に賞賛と戸惑いを生んだ。本当の理由は,認知的不協和理論が軍事研究に利用されたことがショックになったからではないかという噂も流れたが,その真偽のほどは不明である。
人間的な深みと面白さ
学問的なインパクトとは別に,フェスティンガーからはさまざまな人間的深みを印象づけられた。まずその一つは彼の呼び名である。私はそれまで彼をフェスティンガーとドイツ風に呼んでいたが,アメリカではフェスティンジャーと英語読みされることが多いのに気がついて,どちらが正しいのかと尋ねたことがある。彼は元々ロシア系ユダヤ人の家系なのだが,いとも気安く「どっちでもいいよ」と答えた。そしてさらに「Zajonc(ザイアンス)ほど難しくはないだろう」とニャリと笑った。彼にとって名前とは,個体識別のための符牒の意味しか持たないのかもしれない。
呼び名に対するルーズさとは正反対に,彼の書く文章は極めて緻密,かつ明快であった。あるアメリカの社会心理学者の友人に,アメリカで一番美しい英語を書く心理学者は誰かと聞いたら,彼は即座にフェスティンガーと答えた。そして英文で論文を書くならフェスティンガーを真似しろと助言してくれた。それ以来英語論文を書くときは,「困ったときの神頼み」ならぬ「フェスティンガー頼み」を心がけている。
ところで彼が好きなものは人間,それにお酒とゲーム。逆に好まないのは名所旧跡めぐりである。まず人間好きというのは社会心理学者なら当然として,愉快なのはゲーム好きということ。アメリカ人だから元はトランプゲームへの関心が中心だったのだが,日本に来て囲碁に嵌まってしまった。多分東大の水原泰介先生が師匠だと思うが,生来の集中力や凝り性も手伝ってめきめきと腕を上げた。New Yorkにある大学のオフィスを訪ねたら,挨拶もそこそこに碁盤が出てくる。私との勝負は彼が京都に来たときは私の勝ち,New Yorkで碁盤を囲めば彼の勝ちというところであろうか。
一方,好まないのは神社仏閣巡りを中心とする観光旅行で,京都のどの名所旧跡を案内しようとしても行きたくないという。本当に興味を示さないのだ。同行者がいて渋々一緒に付いてくることはあっても,門の中へは入ろうとしない。これには少し困った。
フェスティンガーはその後も何回か来日した。弟子達を連れて来訪してくれたこともある。私の研究室にも訪問してくれて私がその汚さを詫びたら,「研究していれば汚くなるものだ」とフォローしてくれたことが懐かしい。その後,私もアメリカに行くたびに彼のもとを訪ねて旧交を温めた。
1980年代の後半,フェスティンガーとの交流が少し途絶えて気にしていたら,1989年の2月,奥様のTrudyから突然お葬式の案内状が届いた。まさに青天の霹靂。言葉を失った。気を取り直して詳しく伺うと,彼は少し前からがんに罹患し療養していたという。しかし彼は治療を拒否し生死を運命に委ねたらしい。フェスティンガーらしい最後である。ただ折角の案内にも関わらずお葬式に参列することは叶わなかった。これはいまでも最大の心残りである。
こうして私たちはこの世から偉大なフェスティンガーを失ったが,私の心に中には今なお厳然としてフェスティンガーは生き続けている。輝かしい学問の先達であり,かつ私の「兄貴分」であったフェスティンガーのご冥福を改めて祈るや切である。
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