【第3回】
サトウ タツヤ
立命館大学総合心理学部教授。今回は,少し古い歴史を扱える国としてイタリアをチョイス。今度は逆にあまりに厚い歴史があり,取捨選択が難しくなりましたが,最後にはマリア・モンテッソーリまでたどり着いた! 学問が誕生する頃の関連分野の熱気を感じました。
イタリア
近代心理学はドイツを中心に興隆したとされるが,同時に近隣諸国においても同様のムーブメントが起きていた。その学問的母体になったのは哲学であるが,イタリアにおいては19世紀中頃の人類学(形質人類学の流れをくむ人類学)が哲学に加えてイタリア心理学のゆりかごとなっていた。以下で見ていこう。
ティト・ヴィグノリは,心理学に関心を寄せた最初期の人類学者の一人である。19世紀後半,ダーウィンの進化論に影響を受け,動物の知能や行動について研究を行い,比較心理学の基盤を築いた。
ついで,ロベルト・アルディゴはイタリアの実証主義の代表的哲学者で,カトリックの司祭として活躍後,パドバ大学で哲学史を教えた。『実証的科学としての心理学』(1870)を著し,それまでの心理学がもっていたスピリチュアル哲学的な枠組みを批判した。心理学は魂を対象にするのではなく精神過程を対象とすべきであり,また,その方法としてドイツで発達しつつある心理生理学の方法を取り入れるべきだと主張した。また,彼は感覚こそが精神過程の始まりであり,かつ,複数の感覚の連合が精神過程を作ると考えており,その意味でイギリス連合主義の影響を受けていたとも言える。また,1876年という早い時期から,彼は高等学校レベルや大学レベルでの心理学実験室が有用であるという主張もしていた。ただし,彼自身が心理学的な研究を行ったわけではなかった。
人類学の立場から心理学を推進したのがジュゼッペ・セルギである。シシリアに生まれ,メジナ大学で法学を学んだ後,高等学校で哲学を教えるようになった。進化論的実証主義に関心をもったセルギは,イギリスの進化論的社会学者・スペンサー(Herbert Spencer)の著作をイタリア語に翻訳していた。セルギはスペンサーの影響を受けて精神活動は生理学的基礎をもち,生理学的手法によってこそ研究できると考えていた。彼は『実験科学に基づく心理学の原理』を1873〜74年に刊行するなど,哲学において心理学を講じることに関心をもっていた。また,メジナ大学ではイタリアで初めての心理学の科目を開いた。人類学者としても名高いセルジはローマ大学に移ってからは人類学の科目の補助として心理学の科目を開講した。1897には『隔週刊 医師と法律家のための心理学・精神医学・神経病理学レビュー』という雑誌を刊行した。この雑誌はイタリアにおいて初めて「心理学」がタイトルに入ったものであったが,長続きしなかった。1905年の第5回国際心理学会においては,大会長を務めた。
セルギは子どもを対象にした人類学的研究を行っていた。個々の子どもについての形質的なデータをとったうえで類型化して子どもの発達や教育を考えたことから,教育人類学的アプローチとも呼ばれる。
そのセルギに影響を受けたのがマリア・モンテッソーリである。女性差別が残る中1896年イタリアで初めての女性医師となったモンテッソーリは,セルギのほか犯罪人類学の祖であるロンブローゾや精神遅滞児研究の泰斗であるフランスのセガンの影響も受けて,子どもを多角的に調査する子ども調査票を開発した。彼女の研究は1899年イタリア初の国立特殊児童学校でなされ,感覚を重視する教具を開発することになる。彼女はローマ大学哲学科に再入学し教育学や実験心理学を学んだ。また,1904〜07年までローマ大学で教育人類学の講義を行ったが,それはセルギの推薦であった。
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