【第9回】
サトウ タツヤ
立命館大学総合心理学部教授。反証され得ない理論は科学的ではないという反証主義や,著書『科学的発見の論理』で知られるカール・ポパーは,一時期ニュージーランドで教職についていた。ナチスの手から逃れるため亡命していたからである。本文では触れられなかったが大事な史実である。
ニュージーランド
ニュージーランド(New Zealand)は,オセアニアに位置し,オーストラリア大陸(オーストラリア連邦)とは2,000km離れている。マオリ語ではアオテアロア(Aotearoa)で,その意味は「白く長い雲(のたなびく地)」である。国鳥はKiwi。
心理学の最初の教授職はニュージーランド大学のオタゴ(Otago)カレッジで,南島のダニーデンにニュージーランドで初めて設立された大学(1873)である。オタゴカレッジはスコットランドの影響を受けていたため,ちょうどその時期に誕生しつつあった近代心理学に関する知識もニュージーランドに取り入れられることになった。
その最初の教授は連想心理学の父・ベイン(Alexander Bain;1818–1903)のもとで学んでいたマクグレゴー(Duncan MacGregor;1843–1906)であったが,「精神哲学ならびに道徳哲学」の教授であり,心理学はあくまで哲学の一部でしかなかった。
マクグレゴーのもとで学んだハンター(Thomas Alexander Hunter;1876–1953)こそ,ニュージーランド心理学の礎を作ったとされている。彼は近代心理学を視察するために米英独の大学を訪れた(1906–1907)。中でもコーネル大学のティチナー(Edward Bradford Titchener;1867–1927)のもとには3ヶ月滞在して実験手法を学び,帰国後の1908年,ヴィクトリアカレッジ(ウェリントン)に心理学実験室を設置した。
また,ハンターは1906年の外遊時にペンシルベニア大学・ウィトマーの心理学クリニックを訪れていたこともあり,同じくヴィクトリアカレッジに子どもガイダンスクリニックを設立した。この時期のニュージーランドの心理学は哲学の一部という側面が強く,運営には困難も伴ったが,言語障害,非行,精神遅滞,職業選択など,教育と心理学の接点に関する問題に果敢に取り組んだ。
1930年,ようやく実験心理学の講師としてファーガソン(Henry Hall Ferguson)がスコットランドからオタゴカレッジに着任した。彼は応用心理学(特に教育心理学)を重視したところに特徴がある。
ニュージーランド出身の心理学者として初めて世界に認識されたのはビーグルホール(Ernest Beaglehole;1906–1965)である。彼はハンターのもとで心理学を学び,博士論文『所有:社会心理学的研究』で文化人類学者の注目を集めた。後に,アメリカのエドワード・サピア(サピア=ウォーフの仮説で著名)やその仲間のルース・ベネディクト,マーガレット・ミードらと盛んに交流した。文化とパーソナリティ(心理人類学)における先駆者であり,ニュージーランドではマオリ族の文化人類学的研究をも行った。
1948年になってようやくビーグルホールは初めて心理学を担当する教授に就任した。
イギリス連邦の一員としてのニュージーランドの心理学は,その開始においてイギリスやオーストラリアと同時期であったが,その後の歩みは少し後れをとった。
文献
- Baker, D. B. (2012). The Oxford Handbook of the History of Psychology: Global Perspectives. Oxford University Press.
- Blowers, G. H. et al. (2019). Psychology Moving East: The Status of Western Psychology in Asia and Oceania (English Edition). Routledge.
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