公益社団法人 日本心理学会

詳細検索

心理学ワールド 絞込み


号 ~

執筆・投稿の手びき 絞込み

MENU

刊行物

【小特集】

政策における⼼理学活⽤の可能性

池本 忠弘
環境省大臣官房総合政策課企画評価・政策プロモーション室 ナッジ戦略企画官

池本 忠弘(いけもと ただひろ)

Profile─池本 忠弘
2007年東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。博士(理学)。ハーバード公衆衛生大学院公衆衛生学修士課程,ハーバードケネディ行政大学院行政学修士課程修了。2017年より日本版ナッジ・ユニットBEST創設・代表。2020年より現職。

行政での心理学の活用事例

中央省庁や地方公共団体において,心理学の理論や知見を公共政策に活用しようとする機運が高まっているのをご存じであろうか。まずは実際に活用されている事例を3つ紹介したい。

1つめは,現状維持バイアスに着目した初期設定(デフォルト)の変更である。中部管区警察局岐阜県情報通信部では,使命感から,職員が宿直明けに休暇を取得するのを控える傾向にあったという。同部長は,働き方改革の観点でこの点を改善すべく,従来,休暇取得は申請制であったところを,宿直翌日の休暇取得を原則とし,取得しないで勤務する場合にその旨を申請するというようにデフォルトを変更した。その結果,延べの宿直明けの休暇取得者数は前年度比でおよそ3倍に増加した(図1)。

図1 宿直明けの休暇取得のデフォルト化
図1 宿直明けの休暇取得のデフォルト化[1]

2つめは,社会比較または同調性の活用である。具体的な事例としては,環境省で実施した省エネルギーの実証実験が挙げられる(図2)。この実験は,2017年度から2020年度まで実施されたもので,一般の世帯を,レポートを送付する群と送付しない群に無作為に分け,送付群には他の世帯のエネルギー使用量に関する情報等を掲載したレポートを毎月または隔月で送付した。他の世帯のエネルギー使用量に関する情報は,同じエネルギー事業者と契約している他の世帯の使用量の実態や望ましい使用量の水準の理解に役立ててもらうことを目的としたものである。このレポートでは,他の世帯よりも使用量が多い場合には,料金を多く支払っていると伝えて損失を強調する等の手法も用いられた。実験の結果,レポートの送付により平均で2%の省エネルギー・省CO2効果が2年間継続すること,そしてその後レポートの送付を停止した後も少なくとも1年間効果が持続することが明らかになった。実験に協力した事業者をはじめ,多くのエネルギー事業者が顧客サービスとして他の世帯との情報を提供するようになったことが確認されている。

図2 他世帯とのエネルギー使用量を比較した省エネレポート
図2 他世帯とのエネルギー使用量を比較した省エネレポート

3つめは,コミットメントの活用である。長崎市では,災害時に適切な避難行動が取れるよう,「マイ避難所シール」を作成している(図3)。このシールでは,最寄りの指定避難所や一緒に避難する人,災害の種類毎に避難するタイミングや避難場所をあらかじめ記入できるようになっている。これが一種のコミットメントとなるとともに,このシールを冷蔵庫や玄関のドア等に貼ることで,シールに記載された情報が日常生活の中で目にとまり,結果として意識せずとも自然に防災リテラシーが高まることが期待される。

図3 長崎市「マイ避難所シール」
図3 長崎市「マイ避難所シール」[2]

心理学,行動経済学,そして行動科学

以上は,人間の意思決定の癖に関する心理学の知見に着目した取組であるが,近年では心理学というよりはむしろ,心理学の知見を取り入れた経済学,すなわち行動経済学の文脈で,さらにはナッジとして認識されることが多い。

昨今のナッジのブームは,2008年に共著書『Nudge』[3]でナッジの概念を提唱したシカゴ大学のリチャード・セイラー教授が2017年にノーベル経済学賞を受賞したことによるところが大きい。

我が国では,2015年に環境省内にナッジPT(「プラチナ」と読む)が,そしてセイラーの受賞からさかのぼること半年前の2017年4月に環境省が中心となってオールジャパンの体制で日本版ナッジ・ユニットが設立された。日本版ナッジ・ユニットは,その英語名(Behavioral Sciences Team)が示すとおり,心理学や行動経済学をはじめ,行動に関する科学の知見を,行動に起因する社会課題の解決に向けて活用する検討を進めている。

我が国の行政で行動科学の活用について議論され始めたのはいつからであろうか。オンラインで国会の会議録[4]を検索してみると,「行動科学」が議事録に初登場するのは昭和までさかのぼる。1974年には法務省の研修内容が従来の法律中心から行動科学重視へと移行していることが説明され,1980年には教育現場に行動科学を取り入れることの提案がなされ,そして1986年には慢性疾患に対して行動科学的なアプローチにより個人が自ら将来の疾病の発生を予防する方向に変えていかなければならない旨の発言が記録されている。

人文・社会科学のさらなる活用に向けて

このように,心理学等の行動科学の政策活用については行政で長い間議論されてきたが,2021年4月に施行された改正科学技術・イノベーション基本法では,その第3条第2項において,「科学技術・イノベーション創出の振興に当たっては,(中略)自然科学と人文科学との相互の関わり合いが科学技術の進歩及びイノベーションの創出にとって重要であることに鑑み,両者の調和のとれた発展について留意されなければならない」と規定された。そして,これを踏まえた第6期科学技術・イノベーション基本計画(2021年3月閣議決定)では,「⼈⽂・社会科学の厚みのある『知』の蓄積を図るとともに,⾃然科学の『知』との融合による,⼈間や社会の総合的理解と課題解決に資する『総合知』の創出・活⽤がますます重要となる」とされた。

そして再び心理学

行動科学は,自然・人文・社会科学すべてにまたがる学際的な学問領域であり,それから得られる知見は,人間の行動についての洞察全般を意味する科学的知見の集合体(行動インサイト)である。[5]

第6期科学技術・イノベーション基本計画においては,行動科学活用の具体的事例として,国民の行動変容の喚起が位置付けられるとともに,人文・社会科学系の知見を有する研究者,研究機関等の参画を得る体制を構築することが掲げられた。日本版ナッジ・ユニットにおいても,設立から4年が経過する前の2021年より,新たに社会心理学等の有識者を委員として招いており,今後も心理学をはじめとして様々な学問領域の有識者との連携を模索しているところである。本稿をご覧いただいた方におかれては,ぜひ,行動に起因する社会課題の解決に向けてご協力を賜れれば幸甚である。

文献

  • 1.第13回日本版ナッジ・ユニット連絡会議資料1 http://www.env.go.jp/earth/ondanka/nudge/renrakukai07_1/mat01.pdf
  • 2.長崎市マイ避難所シール https://www.city.nagasaki.lg.jp/bousai/210004/210003/p034632.html
  • 3.Thaler, R. H. & Sunstein, C. R. (2008). Nudge: Improving decisions about health, and happiness. Yale University Press.[リチャード・セイラー,キャス・サンスティーン/遠藤真美(訳) (2009). 『実践 行動経済学:健康,富,幸福への聡明な選択』日経BP]
  • 4.国会会議録検索システム https://kokkai.ndl.go.jp/
  • 5.白岩祐子・池本忠弘・荒川歩・森祐介 (2021). 『ナッジ・行動インサイトガイドブック:エビデンスを踏まえた公共政策』勁草書房.

PDFをダウンロード

1