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Over Seas

遥かなるロンドン

高橋 雄介
京都大学大学院教育学研究科 准教授

高橋 雄介(たかはし ゆうすけ)

Profile─高橋 雄介
2008年,東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。京都大学高等教育研究開発推進センター特定助教,京都大学白眉センター特定准教授などを経て,2020年より現職。専門は教育心理学・発達心理学・行動遺伝学。著書に『脳の発達科学(発達科学ハンドブック8)』(分担執筆,新曜社)など。

2017年9月から2019年8月までの2年間,学内から多大なるご支援を賜り,University College London(UCL)にて在外研究を行う機会をいただきました。

こういった文章で原稿を始めてみましたが,その2年間が夢か現か分からなくなるほどの異常事態です。そのような時期にあって,遥か遠く1万km離れた場所での出来事を振り返らんとすることに奇妙さと滑稽さすら覚えます。

UCLのキャンパスは観光地のど真ん中にあります。ロンドンの住宅事情は東京以上に厳しく,街中のキャンパスで訪問研究員が利用可能なオフィスは4人部屋でした。部屋といっても,個人の専有面積は2~3㎡程度で,今なら確実に密だと言われてしまうほどの狭さです。しかし,院生・ポスドクたちと短期間で仲良くなるためにはその程度の密が好都合であったようにも思います。

UCL心理学部棟の南東隣の区画はラッセル・スクエアです。人の出は多いのですが,とても落ち着いた空間で,ひとりで静かに論文を読むのに適した場所でした。ラッセル・スクエアは,現代版『シャーロック』で,ワトソンがホームズを紹介してくれた友人と会う公園のロケ地でもあります。ここに人が多いのは,その南西隣の区画に大英博物館があるからかもしれません。密な蛸壺で少し息が詰まったと感じた時に徒歩5分で大英博物館の裏門まで到達し,広大なる無料の空間を自由に散策できたことは正に幸運でした。

2年もの長きにわたって私の受け入れ先となって下さった2名の研究者は,フランス人の男性研究者JBとフィンランド人の女性研究者Essiです(在外中通り,お二人とも下のお名前と愛称で呼ばせていただきます)。JBはいい意味で私の何らかの観念を壊してくれました。週末のある日,目が充血している彼がいました。どうしたのかと尋ねると,論文のことで考え事をしていたとのこと。それを勤勉と呼ぶのかどうかはさておき,彼はとてつもなく勤勉な人物なのです。Essiは仕事が速く確実で,早口です。そして,議論が白熱してくるとその早口は加速し,口が悪くなります。若干引いている私に気が付いた彼女は「私の母はもっと口が悪いの。これは母親譲り。母ほどではないからそんなにびっくりしないで」と意味不明な説明をしてくれました。

テムズ川を渡って南側にあるKing’s College London(KCL)にも週に一度だけ通い,比較的オープンなセミナーに参加させてもらっていました。そのような縁もあり,KCLの研究者たちとはその後共に研究費を獲得し,2019年の春と秋の2度,その共同研究促進のため,在ロンドンの研究者10名以上に来日していただく機会を設けることができました。

今はこのような情勢ですので,UCL・KCLでお世話になった方々とはオンラインのコミュニケーションツールのみでのやり取りを余儀なくされています。これだけ高度に情報化された現代社会ですので,日本のオフィスにいながらにして有意義な国際共同研究を遂行することは可能なのだと思います。むしろ,一定の期間,生活の拠点をまるごと国外へと移すようなことは余計な手間がかかるだけなのかもしれません。しかし,そういった実利的なことだけでは語ることのできない側面もあります。私が扱うデータは数字と文字のみで構成される無機質なものです。それらがどのような文化的背景をもって取得されるに至っているのかを理解しようとすることが大切です。それによって,眼前のデータは血の通ったものとなり,分析は単なる数字遊びではなくなり,よりよい考察を描き出すことが可能になるように思います。これこそが上記のような面倒をしてでも余りあるだけの利益です。

セミナーの後に冷たいサンドイッチを摘まみながら交流し,夕刻になればパブでビールを片手に対話を続けることのできる当たり前すぎた日常が一日でも早く戻ることを願ってやみません。

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