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【特集】

「正しさ」を考える

2021年3月の内閣府「第6期科学技術・イノベーション基本計画」では,Society 5.0を目指すうえで,自然科学のみならず人文・社会科学分野を含めた「総合知」の重要性をあげています。このような社会を目指すなかで,新型コロナウイルス感染症の感染拡大という強烈な状況の力が,世界各国の社会的課題を浮き彫りにしました。背景には,サイバー/フィジカル空間におけるミスコミュニケーション,正解のない課題に向き合う際に生じるさまざまな感情的軋轢が存在するのではないでしょうか。システム構築のための科学技術への関心が先行し,「人間中心の社会」にかかわる議論が追いついていない印象も持ちます。Society 5.0に向けて,人や社会が求める「正しさ」をめぐる議論が今後どのように展開されうるのか,複数の観点からあらためて考えてみたいと思います。(村山綾)

* サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより,経済発展と社会的課題の解決を両立する,人間中心の社会(Society)。

正しさに潜む「義」と「偽」

上原 俊介
鈴鹿医療科学大学保健衛生学部 准教授

上原 俊介(うえはら しゅんすけ)

Profile─上原 俊介
東北大学大学院博士課程後期修了。博士(文学)。専門は社会心理学。東北大学文学研究科助教を経て2016年4月より現職。著書に『こころを科学する:心理学と統計学のコラボレーション』(分担執筆,共立出版),『紛争・暴力・公正の心理学』(分担執筆,北大路書房),Psychology of anger: New research(分担執筆,Nova Science Publishers)など。

世界がいま大きく揺れている。ロシアが隣国ウクライナに軍事侵攻し,ウクライナ各地で激しい戦闘の火蓋が切られた。この軍事侵攻によって,世界はひとつの国家の消滅の危機だけでなく,第三次世界大戦の脅威までもが眼前に突きつけられている。

ウクライナ情勢をめぐっては,武力で他国の人命や領土を奪うロシアに各国が次々と懸念を表明し,いわゆる正義の名の下に対ロシア非難が強められている。一方,こうした動きに対し,ウクライナ侵攻がウクライナ国内におけるロシア人への差別や弾圧からの解放であるとして,逆に武力侵攻の正当性を訴える国や人たちもいる。それは他でもない侵攻当事国のロシアである。この主張の真偽はともかく,ここで重要なのは,なぜ双方がともに正義を主張しているのかという点である。心の中に絶対的な「正しさ」があるならば,ある立場からすると正しくないことが,別の立場から見れば正しいとみなされるのはなぜであろうか。本稿では,人が「許せない」として憤る心理と,その背後に存在する「正しさ」の本質について考えてみたい。

人は本当に「義」から怒るのか

正しさが引き金となって誘起される怒りとはどのようなものであろうか。ある出来事,もしくはそれに関与した人物の行動が道徳的に見て違反であると認知されると,人は「けしからん」として激しい怒りを経験する。この怒りは義憤(moral outrage)と呼ばれている[e.g., 1]。義憤は行為の「善し悪し」に関わる感情のひとつで,加害者への加罰や被害者支援など社会的公正を回復する行動を動機づけると言われている。また,義憤は被害を被った当事者だけが経験するものではない。子どもの虐待死や他国における集団虐殺のニュースを見聞きしたときのように,個人的被害がまったくない場合でも,不当な加害行為の認知だけによって行為者への怒りが喚起され,強い非難の衝動に駆られるようになる。自分が被害者であろうとなかろうと,道義にもとる加害者を無条件に怒るのが義憤の特徴とされている。

ただし,人々が必ずしも義憤で怒っているかといえばそうとは言いきれない。紛争解決研究によると,対人間や集団間で起きる対立や紛争では敵意や憎しみが増幅されやすく,現実的には解決が困難であることが指摘されている。その心理的障壁となっているのが公正バイアスである。人は一般に正しくありたいと望んでいるが,その正しさの判断は自分が有利になるように歪められるため,自分こそが正義と信じてこれに強く固執する。その結果,対立はより深刻さを増して激化していくと考えられる。実際,葛藤経験において自他がとった行動を事後評価させてみると,自分の行動の方が対立相手より客観的にみて合理性があり正しかったと判断することを示した研究もある[2]。このように,正しさのとらえ方は個人の主観により歪みやすいことから,義憤と呼ばれている怒りの感情も本来の正しさとは別の観点から引き起こされている可能性がある。

そこで筆者は以下の実験パラダイムからこの問題を検討してみた[3]。まず,日本人大学生に拉致事件という第三国による国家犯罪を報じた架空の新聞記事を読ませた。ここで重要なのは,この実験に参加した全員が日本人ということである。次に,その記事を読んだときに感じた怒りの強さを「憤った」「怒った」「不愉快な」など9項目の怒りに関連した形容詞(0から5の6件法)で答えさせた。なお,これら9項目は7つのフィラー項目と一緒にランダム提示されているので,怒り感情が測定されていることに大学生たちは気づいていない。

図1 拉致行為に対する怒り
図1 拉致行為に対する怒り

図1は9個の怒り項目得点の平均値を条件別に示したものであるが,全体としてみると,自国の日本人が拉致被害者になった記事を読んだときには大学生たちが強い怒りを報告していることが分かる。ところが,スロベニア人が同じ拉致被害に遭った記事では,大学生たちの報告する怒りが有意に弱まっていた。このとき,怒りの評価に加え,拉致行為がどのくらい道徳的に見て不当だと思うかもたずねたのだが,この問いに対してはすべての条件で拉致行為への強い道徳的違反の認識が示された。もし義憤と呼べる怒りがあるのなら,拉致行為が道徳的に不当であるという認知は大学生たちの間で無条件に強い怒りを喚起させると予想することができる。しかし,怒りがそうした認知とは独立して自国民の拉致被害のときにしか強まらなかったという結果は,道徳的違反に直面したときの怒りが義憤以外の別の何かである可能性を示している。

もうひとつの怒り

先ほどの実験では拉致に対する怒りが自国民のときにだけ強まっていたが,筆者らはこの理由を次のように考えている。すなわち,日本人拉致の出来事に対して大学生たちは「自分の安全を脅かすものである」ととらえて怒った可能性である。一見,仲間意識から生じたかのように見えるこの怒りだが,大学生の日本国に対する内集団意識の影響力を分析時にコントロールしても,怒りの反応パターンに変化は生じなかった。したがって,自分が拉致被害に遭っていたかもしれないとか今後もその被害に遭うかもしれないという個人的理由から拉致や実行犯に怒りを感じた可能性が多分にある。このような,自分の利益が損なわれた(もしくはそのおそれがある)と知覚されたときにだけ引き起こされる怒りを私憤(personal anger)と言う[e.g., 4]。経験的には,道徳的違反を認知すると「許せない」という気持ちがわいて,義憤を経験している感覚にとらわれることがある。しかし,そのとき経験している怒りがじつは私憤であること,そこでは多少なりとも個人的な損得が関与していること,そして道徳的違反の認知は義憤を誘起させる決定的な要因にならないことが示唆できる。

興味深いことに,こうした怒りの反応パターンは人の道徳心にもまったく影響されなかった。このとき道徳心の指標としたのは公正敏感さ(justice sensitivity)で,この傾向が強い人は不当行為を看過しにくく,損得抜きで違反者を懲らしめる傾向がある[5]。結果は図1の通りで,正しさに敏感だからといって他国の拉致被害に怒りが強まったわけではなく,義憤を生起させる上で道徳心のはたらきはきわめて弱いことが浮き彫りとなった。

なぜ私憤なのか

同じ被害でも,これを見聞きした人の側では怒りが強まったり弱まったりするのはなぜであろうか。道徳的違反の認知や道徳心が義憤を生み出さないのはなぜであろうか。

考えられる最大の原因としては,そもそも義憤と呼べる怒りが存在しない点があげられる。ウクライナ問題を振り返ってみても,たとえばインドは国連によるロシア非難の全決議において棄権することを表明したし,中国ではロシアとの同盟関係を再確認するために外相会談が行われた。さらにフランス大統領選では,物価の高騰を受け,ロシア制裁を掲げるマクロン氏よりも物価を下げる政策を打ち出したルペン氏の支持が拡大し,肉薄の選挙戦が行われた。これらはすべて,道徳的危害よりも国や人の利害が優先された結果の行動であると解釈できる。

ではなぜ,人は義憤に訴えることがあるのだろうか。一連の実験結果を受け,筆者の研究グループでは,義憤が自分の行動を正当化するためのレトリックとして利用されている可能性を考えている。攻撃や暴力を理解するための加害者側の心理メカニズムのひとつに,道徳心が弛緩することで加害行為に抵抗を抱かなくなるというものがある。これは道徳性の放棄(moral disengagement)として知られている[6]。一方,同じ道徳抑制心の低下が被害者側にも見られる。この引き金となるのが道徳性の行使(moral engagement)である[7]。個人的な危害や不利益を被った被害者たちは「自分が被害者である」という意識を強め[8],過ちを正すことにとらわれすぎて過激な行為にまで道徳性を拡張,適用させようとする。道徳性が拡げられると,被害者は自分の言動をこれに沿って知覚するようになり,反撃を英雄視するなど,自己のあらゆる行動が道徳的な目的のもとに行われていると幻想を抱くようになる。そして,その拡張された道徳性によって,私憤の怒りまでもが正しさを纏っているかのように錯覚されると考えられる。このように,義憤というフレーズは個人的都合を合理化するためのレトリックとして扱われ,公正回復は個人利益が回復・維持される範囲内でしか行われないのである。

「道徳的行動」のように見えるもの

公正回復を試みるか否かが自益的観点から決まるということは,当然,人の道徳的動機づけが別の何かに凌駕されているということを意味している。私憤が優勢であるという知見からすると,シンプルにそれは利己的動機づけだと思われるかもしれない。しかし,大学生たちの間では道徳的違反の認知が一貫してはたらいていたことからすると,彼らの心の中で正しさを求める気持ちがなかったわけでもない。道徳的に行動すべき場面において生起する,道徳心と利己心を単純に切り分けることのできない動機づけとはどのようなものであろうか。

この疑問については道徳的偽善(moral hypocrisy)の研究が有益な知見を提供している[9]。それによると,人が道徳的(に見える)行動をとるのは,道徳性を履行すること自体を目的としているのではなく,あくまで別の利益追求のための手段になるからだとしている。この動機づけを偽善動機づけ(道徳的行動をとりながらもコストを回避し自己利益を追求しようと試みる動機づけ)と言う。

表1 各課題に自分を割り当てた人数
表1 各課題に自分を割り当てた人数

その古典的実験において[10],大学生参加者らは自分と別室の参加者をポジティブ課題(問題に正解するたびに30ドルが当たるクジをもらえる課題)とニュートラル課題(問題に答えるだけのつまらない課題)にそれぞれ割り振る役割が与えられた。このとき大学生たちにはコインも与えられ,迷ったときにはそれをフリップして決めても構わないことが伝えられた。そのときの結果が表1で,コインフリップした大学生のうち9割もの人が自分をポジティブ課題に割り当てており,この割合はチャンスレベルから大きく逸脱していた。これは,コインをフリップしても,その結果を無視して自分をポジティブ課題に割り当てた人たちがいることを意味している。参加者らは愛他的に行動することも考えたが(犠牲的に自分をニュートラル課題へ),自益的関心を捨てきれず(自分をポジティブ課題へ),うわべだけの正しさや道徳心を示すことで(コインフリップ),利益追求に走ることの正当性を担保したと推察できる。このように,道徳性が求められる事象においては道徳心と利己心が拮抗し,最終的に正しさは手続的に示されるだけにとどまるのである。この実験を日本人に追試しても同様の結果が得られているので[11],偽善の動機づけについては超文化的な特徴が存在するものと思われる。

まとめ

ある研究者たちは,道徳的に見える行動をamoral(道徳観念とは無関係な何か)としてとらえることを提案している[12 ]。社会的弱者を庇護する場合のように,正しさはときとしてアンフェアな行動を「正しい」とすることがあるからである。そうであれば,われわれの心の中に絶対的な「正しさ」と呼べるものはあるのだろうか。この答えの鍵となるのは,コインフリップに素直にしたがうような,道徳的誠実さ(moral integrity)に動機づけられる人たちが実際にいるか確かめることにあると思われる。

文献

  • 1.Batson, C. D., Chao, M. C., & Givens, J. M. (2009) Pursuing moral outrage: Anger at torture. Journal of Experimental Social Psychology, 45, 155–160.
  • 2.Ohbuchi, K., Fukushima, O., & Fukuno, M. (1996) Reciprocity and cognitive bias in reactions to interpersonal conflicts. Tohoku Psychologica Folia, 54, 53–60.
  • 3.上原俊介・中川知宏・田村達 (2015)「怒りの利己性:公正敏感さは怒りの道徳感を誘起するか」『実験社会心理学研究』54, 89–100.
  • 4.Uehara, S., Nakagawa, T., & Tamura, T. (2014) What leads to evocation of moral outrage? Exploring the role of personal morality. International Journal of Psychological Studies, 6, 58–67.
  • 5.Baumert, A., & Schmitt, M. (2016) Justice sensitivity. In C. Sabbagh & M. Schmitt (Eds.), Handbook of social justice theory and research (pp. 161–180). New York: Springer.
  • 6.Moore, C. (2015) Moral disengagement. Current Opinion in Psychology, 6, 199–204.
  • 7.O'Mara, E. M., Jackson, L. E., Batson, C. D., & Gaertner, L. (2011) Will moral outrage stand up? Distinguishing among emotional reactions to a moral violation. European Journal of Social Psychology, 41, 173–179.
  • 8.Zitek, E. M., Jordan, A. H., Monin, B., & Leach, F. R. (2010) Victim entitlement to behave selfishly. Journal of Personality and Social Psychology, 98, 245–255.
  • 9.Batson, C. D. (2008) Moral masquerades: Experimental exploration of the nature of moral motivation. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 7, 51–66.
  • 10.Batson, C. D., Kobrynowicz, D., Dinnerstein, J. L., Kampf, H. C., & Wilson, A. D. (1997) In a very different voice: Unmasking moral hypocrisy. Journal of Personality and Social Psychology, 72, 1335–1348.
  • 11.上原俊介・岡田卓也 (2007) 「人はなぜ道徳的に振る舞えないのか?偽善動機づけが道徳的振る舞いに及ぼす影響」『日本社会心理学会第48回大会発表論文集』284–285.
  • 12.Batson, C. D., Klein, T. R., Highberger, L., & Shaw, L. L. (1995) Immorality from empathy–induced altruism: When compassion and justice conflict. Journal of Personality and Social Psychology, 68, 1042–1054.
  • *COI:本記事に関連して開示すべき利益相反はない。

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