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【小特集】

契約と心理学

村本 武志
東京経済大学現代法学部 教授

村本 武志(むらもと たけし)

Profile─村本 武志
弁護士。博士(法学)。2011年より現職。専門は民法(契約法),投資法(商品先物,証券取引,デリバティブ)。著書に『情報ネットワークの法律実務』(分担執筆,第一法規),『銀行の融資者責任』(分担執筆,東洋経済新報社)など。

はじめに

消費者センターへの20歳代の相談は,契約金額も高額であるほか,未成年者にはあまりみられないオンラインカジノ,副業サイトなどの内職・副業,ファンド型投資商品等の投資トラブルも多い[1]

日本の民事法が,意思表示の取消を認めるのは,誤導や威迫などが用いられた場合に限られる。言い換えれば,人の認知の歪みや偏りが顧客自身のバイアスによる場合は,救済の網から漏れ落ちる。本稿では,契約における事業者による顧客バイアスの惹起と利用の実情,それにより人の自己利益が損なわれる心理メカニズムを概観し,これに対する民事規制について検討する。

契約での人のバイアス利用

損失が確定している契約

顧客は,契約の目的物の不具合についての知識や情報があれば,損失を回避できるか。日本の利息制限法は,上限金利を超える利息の約束を無効とする。無効な金利と知って支払った場合でも,判例は,返済が求められると誤解していれば,任意の返済ではないとして返還請求を認める。しかしこれを錯誤によらず,なお任意の支払いでないとするには,別の理屈が必要である。無効な金利のように支払い不要な負担でも,法情報の不足で生じるバイアスの影響で,無効な返済請求を「回避できない損失」と認知しがちとなり,顧客はその支払いに追い込まれる心理に陥る。これが任意性が欠けることの根拠となる。

リスクを目的とする契約

リスクは,事象の変動幅で,先験的・理論的に,あるいは統計的に確率が知られているものをいう。リスクそれ自体を目的とするものに証券や商品先物などの証拠金取引がある。顧客は,商品を「売り」「買い」の両方の立場で行う。取引に含み損が生じれば,一旦終了させることで,損失の拡大を防げる。金融商品取引業者は,既存の取引を維持したまま反対の立場での取引を勧めることがある。「買い」取引で含み損が生じれば,逆の「売り」取引を行うことで損益が相殺され,損失が固定する。これは経済的には既存取引を一旦損切りし,逆の立場での新規の取引を始めることと,同一である。しかし,既存の取引を維持したままでは,その含み損が一定幅を超えると,追加の担保が必要となる。担保を追加できなければ,強制的に取引の終了となる。両建て状態にある場合の取引終了は,そうでない場合に比べ,顧客には,各段に難しい判断となる[2]。それにもかかわらず,顧客が両建ての勧誘に応じてしまうのは,保有バイアス,現在バイアスの影響による。これは「損失」を回避・回復不能なサンクコストではなく,回避・回復可能なものと認知させることで,長期的には不合理な選択を動機付ける効果をもたらす。

非リスク性の不確実な事柄を目的とする契約

副業サイトは,簡単な作業や投資で大きな収益が得られるとし,情報商材を販売する[3]。副業サイトでの利得が取得できるかどうかは確率計算できない不確実性がある。霊感商法は,先祖の因縁により自身や近親者に災禍が生じるとし,その回避に必要であるとして物品の購入や献金をさせる[4, 5]。霊感商法で先祖の因縁として起こるとされる災禍の発生はそもそも確率さえ知られていない点でリスクとは異なる。それにもかかわらず,物品購入や献金の求めに応じる人の心理は,利益を得たり損失を回避できる「機会損失」と認知し,それに過剰な重み付けがなされる結果に他ならない。

契約に応じる人の心理

受け手の心理

不確実性下で人の意思決定に際しての直感による思考,認知や判断の歪みを説明するものに,心理物理学,連合の考え方がある。心理物理学は,認知に関わる思考には,判断や評価における刺激の非線形による参照点を基準とする損失回避性,感応度低減性があるとする。連合は,人は自分の理解した世界(心理的空間)に基づいて行動を決定し,矛盾が生じれば,刺激により生じた心的表象が知覚・感覚的に連合する認識として活性化され,連合しない認識が抑制されるとする。これにより抑制されない認識のみに基づく狭いフレーミングによる判断がもたらされる[6, 7]。また損失に着目すれば機会費用が軽視されがちとなる。

不確実性下の判断のエラー

契約の目的物に関する情報が不足すれば,取引の判断に主観的不確実性が伴う。判断に必要なパラメータの重要度の情報が不足することで,重み付けの偏りが生じ易くなる。借り手の誤解は,貸し手による誤導や不当な威圧の結果ではない。無効な金利を支払うかどうかの判断では,「支払い約束が無効かもしれない」というパラメータより,「払わなければ元本を含めた一括支払いが迫られるかもしれない」というパラメータに過度に重み付けがなされがちとなる。これは,プロスペクト理論における価値関数と確率加重関数で説明することができる[8]

時間の未経過による客観的不確実性の存在は,人に,回避・回復ができないサンクコストを回避・回復可能な「損失」とフレーム付け,損失回避バイアスを動作させる。取引の含み損はサンクコストである。しかし,両建て勧誘は,それを回復可能な「損失」とフレーム付けする。損切りパラメータに比し,両建てパラメータに過度な重み付けがされる。

霊感商法で物品購入や献金に応じるのは,先祖の因縁である「宿命」が,物品購入や献金を行うことで「回避可能な損失」に転化するからである。これにより,損失回避・回復の機会を利用しないことが機会利益の喪失と意識され,顧客・被害者に損失回避バイアスが走る。「今がチャンス」「今が転機」などの説明は,人に希少性バイアスを働かせる。一貫性バイアスや確証バイアスは取引の維持,繰り返しを正当化する。霊感商法を行う事業者は,自己の財産をすべて神に捧げる「万物復帰」を教義とする。その教義の系統的な学習により,被害者の物品購入や献金は,自身や親族の災禍の回避から教義に則った信念の発露へと質的な変化を遂げ正当化される。

バイアスの回避・排除

バイアスによる自己に不利益な判断を回避するには,まず,契約の内容や欠点に関する情報を集め,可能な限り主観的不確実性の排除に努めなければならない。契約締結の判断に影響するバイアスの種類,内容,働きなどの知識・情報,顧客との間の情報格差からすれば,事業者による提供も義務付けられてよい。次に,自身がバイアスの影響を受ける存在であることを知り,自身の判断がバイアスに影響されていないかを検討する批判的思考を行う必要がある。プロスペクト理論のいわゆる確率加重関数によれば,主観的損失の値は取引主体によって異なる。プロ投資家はこの値が低いが,一般投資者が「投資家のように考えるように」と指示されれば,同様に,損失に対する感応度が低くなると説明される[8]

民事法の規制

本稿で検討したとおり,人には,損失回避バイアスがあり,これは生存本能に由来する。また,主観的・客観的不確実性の下の判断では,認知資源・判断能力の限界に由来する誤ったヒューリスティクスや,スキーマの利用,それに随伴するバイアスの発生や判断の歪みを避けられない。事業者が顧客に内在するバイアスのスイッチを入れ,それを自動で働かせることで利益を得ようとする行為は,正義に反する不当行為といえる。また,認知資源・処理能力で人を遥かに凌駕するAIでも,何かの課題を実行しようとする際にフレーム設定がされなければ,課題に関係のあることだけを選び出し,課題を適切に処理することが難しいとされる。これは人の利用可能バイアスに似る。契約に際してバイアスを排除するには,目的の呈示が不可欠となる。認知の歪みによる意思表示の取消しを,誤導や威迫などに限定する現在の民事法の考え方は改められなければならない。しかし,顧客にするバイアスの惹起や利用行為を違法とするためには,バイアス利用による人の判断エラーの定型性とメカニズムを明らかにする必要がある。そのために認知心理学,社会心理学が果たす役割は大きい。

文献

  • 1.国民生活センター(2022)https://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20220228_1.html
  • 2.松本克美他(2020)法と心理,20,87–93.
  • 3.国民生活センター(2018)https://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20180802_1.html
  • 4.Chapman, G. B., & Sonnenberg, F. A. (2004) Decision making in health care. Cambridge University Press.
  • 5.村本武志(2020)消費者法判例百選.ジュリ,249,100.
  • 6.Kahneman, D. (2003) Am Econ Rev, 93, 1449–1475.
  • 7.Payne, J. W. et al. (1999) J Risk Uncertain, 19, 243–270.
  • 8.Kahneman, D., & Tversky, A. (1979) Econometrica, 47, 263–292.
  • *COI:本記事に関連して開示すべき利益相反はない。

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