眼科学の領域から
仲泊 聡(なかどまり さとし)
Profile─仲泊 聡
立命館大学客員教授,東京慈恵会医科大学客員教授を兼任。医学博士。著書に『ポイントマスター!ロービジョンケア外来ノート』(共著,三輪書店)。
私は,眼科医であり,30年以上を視覚障害者の方々とともに歩いてきました。『心理学ワールド』の目次の中で,まず目に飛び込んできたのが,吉野由美子先生がお書きになった「見ようとする意欲と見る能力を格段に高めるタブレットPCの可能性(60号小特集,2013年)」でした。視覚障害当事者の著者による趣味のダイビングでのタブレットPCを使った小動物の観察体験が書かれていて,見えにくい人にも見る意欲をかき立て,見る能力を高められると述べておられます。視覚障害というと,とかく全盲をイメージしがちですが,日常生活の手がかりになるレベルの視機能を持っている方が視覚障害者の大多数であるということは,あまり知られていません。吉野先生の場合のように,新しいデバイスが障害者の生活を一変するということは,しばしば経験されることなのです。また,田中恵津子先生は「心理物理とロービジョンケア(65号特集,2014年)」で,まさにそのような視覚に障害を負ったロービジョンをどう測定するかについて述べておられます。従来,心理測定の手法は眼科医療に多く取り入れられていますが,視覚の感度が下がると,それが必ずしも適用できない場合があり,新しい評価法が今も求められています。そして,どのような機能低下が,どのような日常課題に影響しているかについても現代の眼科医療ではとても重要視されてきています。
一方で,障害を負った方の感覚や行動に注目することで,健常者の特性のある面が際立って観察できるということも少なくないのではないでしょうか。心理学は健常者を対象とするものが多いと思いますが,特定の障害者を観察することで,健常者の特性が理解しやすいという場面があるのではないかということです。視覚障害の方の行動は,脳科学で言われている視覚情報処理のどの部分が失われているのかという観点で評価できる場面があります。たとえば,視覚障害者の中には視線方向の情報が損なわれる中心暗点という状態の人とそれとは逆に周辺視野だけが損なわれる人がいて,前者では大脳腹側路系の機能障害が生じ,後者では大脳背側路系の機能障害が生じると考えることができます。しかしながら,「視覚科学における分野融合(73号特集,2016年)」の中で「脳科学は飛躍的に進歩しているが,リアルな知覚体験の理解にはなかなかつながらずにじれったい。(中略)知りたいのは脳のハードウェアではなくソフトウェアである」(p.5)と語る西田眞也先生と同じ気持ちを眼科医である私も持っています。医学の領域では,基礎的な知見を臨床に応用するトランスレーショナルリサーチが重要とされますが,最近ではその逆方向のリバーストランスレーショナルリサーチを行うことで,基礎的な知見をさらに深めることができると言われるようになっています。たとえば,触覚情報の重要性が最近のコロナ禍を契機に言われるようになっていますが,これを際立たせている事象を視覚障害者の心理や生活のなかに垣間見ることができるのではないでしょうか。渡邊淳司先生がお書きになった「VUCA時代のデジタル身体性心理学(98号小特集,2022年)」によれば,すでに技術的には触覚情報がインターネット上を流通する準備が整いつつあるとのことです。そして,多様な要因が絡み合い複雑で予測不能な時代(VUCA)を乗り越えるためにも触覚情報の扱いが社会的に大変重要であるとのことです。私は本稿を読んで,触覚情報の重要性が凝集したモデルを視覚障害者の生活の中に見出せるのではないかと強い関心を持ちました。そして,眼科医療あるいは視覚障害者支援の領域からも心理学へのリバーストランスレーショナルなアプローチがいろいろとできるのではないかと期待しているところです。
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