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文化人類学の領域から

澤野 美智子
立命館大学 総合心理学部 准教授

澤野 美智子(さわの みちこ)

Profile─澤野 美智子
博士(学術)。専門は文化人類学,医療人類学。著書に『乳がんと共に生きる女性と家族の医療人類学:韓国の「オモニ」の民族誌』(単著,明石書店)など。

本稿では文化人類学のマルチスピーシーズ民族誌の観点から『心理学ワールド』を読み,心理学にとって学術的な意義を持つ「マルチスピーシーズ心理学」は展開可能なのか,そして逆に心理学的知見は人類学のマルチスピーシーズ民族誌にどのように与しうるのか考えよう。

マルチスピーシーズ民族誌とは「人間と他種(さらには生物種にとどまらず,ウイルス,機械,モノ,精霊,地形も含む)の絡まりあいから人間とは何かを再考する分析枠組み」である[1]。近年の文化人類学では人間中心主義的な研究のあり方を再検討し,脱人間主義を意識する動きがある。その中に位置づけられるマルチスピーシーズ民族誌は,人間が他の諸存在から独立したものではないという考えに基づき,人間と非人間の行為主体性を対称的に扱う。

例えばハンセン氏は北十勝の酪農業における人間と牛と機械の関係を論じた[2]。大規模な機械的搾乳システムの導入以来,人間も牛も一望監視的な統制の下に置かれるようになった。牛も牧場で働く非熟練労働者も,社会から排除され,機械のリズムに合わせて生きている。一方で機械の外では,牛と人間は種を超えて情動を共有し,「個人的」で双方向的な関係も築くという。

ところで本誌においても牧場の牛に注目した動物心理学の記事がある。「牧場の牛たち,みんな同じに見えますか」(山田弘司氏,69号,2015年)である。行動データ測定を通して牛の性格を明らかにした山田氏は次のように述べる。「性格は生まれつきの気質に環境や経験による修飾が加わったものとされている。実験動物ではないので,環境のコントロールは難しい。牧場が違えば飼育環境が異なり,集団飼育が関わると他個体からの影響も加わってくる。また,飼育環境の情報を得るため,飼育状況を逐一記録するのも現実的でない。そこで,環境や経験による性格の違いの研究はあきらめ,生まれつきの性質である,気質の測定に焦点を絞ることにした」。

これは他種との絡まりあいの存在を示唆する興味深い文章である。牛が飼育環境や他個体との関係性の中で性格を形成することが示されているからである。心理学の観点から見れば(統制のとれた実験にすることは困難かもしれないが),飼育環境や他個体との関係を長期観察し緻密に描き出す質的研究によって牛の性格形成過程を解明する「マルチスピーシーズ心理学」も展開可能であろう。

他方で本記事は人類学的研究にとっても興味深い情報を含んでいる。山田氏によれば,牛の精子の期待される性質が乳用種雄評価成績のカタログに示されるが,そこに温順性(敏感性,神経質さ)もスコア化され加えられた。牛の管理しやすさの参考にするためという。これは,性質のスコア化によって牛の統制が進んでいることを示している。管理しやすい気質の牛の精子が選択され,人間にとって都合が悪い気質の牛は排除・淘汰されてゆく。ハンセン氏が描いた牧場の一望監視装置の統制下に入る以前に,生まれる前から統制が始まっているのである。科学技術と人間,動物の絡まりあいという点から検討に値する現象である。

ただし同時に山田氏は,牛に頻繁に接し世話することで,牛が人間に不安を持たず寄ってくるようになり,世話がさらに楽になるとも述べている。この点が興味深いのは,管理しやすい牛に育てる上で牛と人間の情動的な接触が必要なことである。牛と人間の情動を分断するスコア化による管理と,管理しやすい牛を育てる情動的な関わり。この複雑な絡まりあいを読み解くことは,心理学と人類学の両方にとって重要であろう。

  • 1.近藤祉秋・吉田真理子(編)(2021)食う,食われる,食いあう.青土社.
  • 2.ハンセン,P. (2021)乳牛とのダンスレッスン.前掲書1(pp.107-139).

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