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裏から読んでも心理学

あなたのことを知りたくて

慶應義塾大学文学部 教授

平石 界

知らない専門用語への反応って3つあると思ってます。字面の強さからして大事そうだなって気合が入る時と,字面だけでなんか軽んじてしまう時と,字面が強すぎて端から諦めモードに入る時と。エントロピーが一番目で,エンタルピーが二番目で,ヘルムホルツの自由エネルギーが三番目って感じでしょうか(個人差があります)。

「エルゴード性」も三番目でした。Fisher et al.(2018)のアブストで遭遇したものの,こらあかんと溜息をついて放置していたのです。でも連載の〆切は迫るのに他の良いネタも見つからないので,観念しました。検索窓に入れてクリック。「物理においては,力学系の運動の長時間平均と位相空間における平均が一致する性質」(日本大百科全書)。なんだよ「物理においては」って。学会でいかにもなシニア研究者から「素人質問」という棍棒で殴られたとき並みの絶望感です(Wikipediaを開くともっと絶望できます)。

こういう時は先送り。取り敢えず論文を読み進めましょう。なになに,エルゴード性について詳しくはMolenaar(2004)をチェックしろとな。どうせまた棍棒なんだろうけれど,どうせ〆切には間に合わないんだ。読んでしまえ。

これが案外といけるんですよ。上述の呪文を心理学者向けに噛み砕いて説明してくれている。ある個人の心理変数(パーソナリティとか)を長期にわたって追跡調査した時のバラツキの構造(個人内分散)と,同じ心理変数の多くの人たちの間でのバラツキの構造(個人間分散)が等しいなら,それはエルゴード的と言える。逆に言えば,非エルゴード的過程について,個人間分散の分析で分かったことを,個人内分散に一般化することはできない。心理学の対象はことごとく非エルゴード的だ。たぶん,そんなことが書いてある。

あれでもちょっとまって。それってつまり,100人にパーソナリティ質問紙を配ったデータから5因子が得られたとしても(個人間分散),ある人に100日間,毎日パーソナリティ質問紙に回答してもらったデータ(個人内分散)も同じ5因子になるなんて言えないってことですか(Borkenau & Ostendorf, 1998)。個人間分散をいくら見ても,一人ひとりの心の動きの参考にはならないってことですよね。件のFisher et al. (2018)も,抑うつ気分と不安は参加者間だと正に相関するけど,参加者内だと負に相関してたよ,とか報告している。クロスセクショナルなデータから個人に向けたアドバイスの参考にできる知見は,構造上得られないって書いてあるような気がするが如何に?

似たような問題で,心理学では「吊り橋では好感度が上がる」みたいなことをよく言うけれど,実際その通りになってる実験参加者の割合は3割くらいっぽいよとか(McManus et al., in press),参加者間デザインなら工夫次第で,9が221より(心理学的には)大きいことを示せるよとか(Birnbaum, 1999),色々あるみたい。気になるのは,こうしたことが随分前から指摘されていることです。Molenaarさん,「今までずうっと優しく伝えようとしてきたけれど,誰も聞く耳持たないから,いい加減はっきり宣言させていただく(意訳)」と若干キレ気味ですけど,それがすでに20年近く前の話。理屈から丁寧に考える人の苦悩が垣間見られて申し訳なくなりました。

ということで,まずは単語の意味をもう少しちゃんと理解して「この分野は素人でよく分からないのですが,エルゴード性を仮定されているようですが,それは適切なんでしょうか?」「いえ,ご懸念は分かりますが,この問題は少し違っていまして。実は先生の連載を拝読して,エルゴード性の理解が少し違うなと思っていたのですが」「それは失礼しました。しかし先生のお話では〜が位相空間に対応すると思いますが」「いえいえ」「いえいえ」みたいなハリセンの打ち合いができるレベルを,まずは目指してみたいと思います。どうぞよしなに。

Profile─ひらいし かい
東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。東京大学,京都大学,安田女子大学を経て,2015年4月より慶應義塾大学。博士(学術)。専門は進化心理学。

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