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多くの日本人は本当に無宗教なのだろうか?
松島 公望(まつしま こうぼう)
Profile─松島 公望
博士(教育学)。専門は宗教心理学・発達心理学・教育心理学。著書に『宗教性の発達心理学』(単著,ナカニシヤ出版),『宗教を心理学する』(共編著,誠信書房),『宗教が拓く心理学の新たな世界』(共編著,福村出版)など。
ある側面から捉えようとすると「多くの日本人は無宗教である」となり,ある側面から捉えようとすると「無宗教とは異なる様相」が見えてくる。本稿では,捉え方で異なってくる日本人の宗教性について論じてみたい。
「信仰の有無」のみで捉えるのではなく,「宗教性各次元の得点の高低」で捉えてみると…
多くの質問紙調査において「あなたは特定の宗教に対して信仰をもっていますか」という項目が存在し,これに対して調査対象者は「はい=信仰あり」「いいえ=信仰なし」と回答する。その結果,信仰ありは○%,信仰なしは○%と示され,これまで実施された世論調査の多くは「信仰なし」と回答する人が7割~9割程度となり[1],「日本人は無宗教である」とたびたび論じられるわけである。「信仰の有無」を尋ねることは,日本人の宗教の実態を知ることになりとても重要であるが,この質問項目だとただ「信仰があるか・ないか」のみの情報しか得ることができないという限界がある。それ以上の事柄は聞いていないので,当然といえば当然であるが,回答した全員の宗教性の内実は全くわからないままである。「無宗教」とは「無」の言葉の通り,全く何もないことを意味するのであろうか。無宗教を自認する人びとの宗教性は存在しないのだろうか。その疑問に応える一つの方法として,「信仰の有無」のみで捉えるのではなく,「宗教性各次元の得点の高低」で捉える方法を提案したい。すなわち,宗教性各次元を数値で割り当てて(得点化して),その得点(数量的データ)の高低から捉える方法である。
宗教性とは,「個人がどの程度宗教にまつわる事柄に関与しているのか」を測定する指標であり,個人が特定の宗教教団に限らず宗教にまつわるさまざまな事柄についてどの程度,「知るのか,信じるのか(認知的成分),感じ・体験しているのか(感情的成分)=宗教意識」「行うのか(行動的成分)=宗教行動」を表している(表1)。宗教性とは,「宗教にまつわる事柄 について,知り(知識),信じ(信念),感じ・体験し(体験),行う(行動)」ことと定義することができる。
宗教性を定義することができたならば,測定(調査)を行うための宗教性に関する尺度を作成することになる。質問項目の例としては,「私は,信仰に裏打ちされた生き方こそ,人の真の生き方であると思う(信念)」「私は,自分が,神の前にいるという感覚がある(体験)」などがある[2]。これらの項目に対して評定法で回答してもらい,得点化する。得点が高いほど,その人は「宗教にまつわる事柄に関与している(宗教性が高い)」ことを示す。
このように,宗教性各次元を得点化(数量化)することにより,それぞれの調査対象の宗教性の特徴をつかむことができる。たとえば,Aという宗教教団は,知識4.5点,信念5点,体験1点,行動3.5点であった場合(図1参照),A教団は知識,信念の得点は高く,体験の得点は低く,行動は中程度であり,この教団は,体験といった感情的・情緒的な側面は乏しく,知識,信念といった認知的な側面が際立つ特徴を有すると示すことができるのである。
加えて,一つ一つの宗教教団の特徴だけではなく,それぞれの宗教教団の特徴を比較することもできる。図1は宗教教団別の宗教性各下位尺度の得点分布例である。たとえば,信念については,A教団5点,B教団2点,C教団1点の結果から,A教団が信念についてもっとも高い得点であると次元ごとの特徴の違いをみることもできるし,宗教性全体の特徴から各宗教教団の違いについて検討し,論じることもできる。
この方法は,無宗教を自認する人たちの宗教性の特徴を測定することもできる。例としてA教団,B教団,C教団としたが,「無宗教」もその一つのグループとして位置づけることも可能である。無宗教と自認する人たちを「宗教にまつわる事柄について,知り(知識),信じ(信念),感じ・体験し(体験),行う(行動)」の枠組みで見ていくことにより,宗教性各次元を得点の高低として捉えることができる。「信仰の有無」だけで捉えようとすると「信仰なし」で情報はなくなってしまうが,さらに宗教性の枠組みからも捉えようとすれば,無宗教を自認する人たちの内実を捉えることができ,その実態を明らかにすることができるわけである。
日本人が語る「無宗教」とは…
無宗教を自認する人にとって,多くの場合,特定の宗教教団に入信していないことが「私は無宗教である」という認識を生じさせるように思われる。基準は「特定の宗教教団に対する信仰の有無」であり,たとえば調査を行った場合には,その結果が「信仰あり」「信仰なし」の回答となる。さらにここで「信仰」とは「継続的に信じている」と想定しているのではないだろうか。多くの場合は,「キリスト教徒」をイメージして,あのように継続的に信じていないために「信仰あり」とは言わず,「私は無宗教である」と回答するように思われる。実際,現代世界で用いられている「宗教:religion」という概念自体が,近代西欧の支配的「宗教」であった西方のキリスト教(ローマ・カトリック教会,プロテスタント諸教会)の暗黙のモデルとして形成されたと言われている[3]。多くの日本人が語る「無宗教」とは「無キリスト教」を意味しているとも言えなくはないように思われる。
このように,多くの日本人が「継続的に信じること」を宗教にまつわる事柄に関する指標としているように思われる。しかし,私たちは宗教にまつわる事柄に対して「信じる」だけではなく「知ることも」「感じ・体験することも」「行うことも」ある。言い方を変えれば,「信じる」とは宗教性の一つの次元に過ぎず,それ以外の次元も宗教性の構成要素であり,人はそれぞれの次元について濃淡・高低はあるけれども,宗教にまつわる事柄に関与・傾倒している。実際,多くの日本人が,易や占星術などの占いの本を読む,お堂やチャペルの中にいると厳かな気持ちになる,新年を迎えたら社寺に初詣に行くなどの経験を大なり小なりしているわけである。
多くの日本人は,宗教にまつわる事柄に対して「信じること」にとらわれすぎているように思われる。もっと「知ること」「感じ・体験すること」「行うこと」にも着目してもよいのではないだろうか。そのような見方をすることにより,日本人の宗教における様相は「無宗教」とは異なる新たな風景が見てくるように思われてならないのである。
- 1.西脇良(2004)日本人の宗教的自然観:意識調査による実証的研究.ミネルヴァ書房
- 2.松島公望(2011)宗教性の発達心理学.ナカニシヤ出版。質問項目の例は,筆者が作成したキリスト教的宗教意識尺度である。
- 3.久保田浩・鶴岡賀雄(2012)キリスト教概論.世界宗教百科事典編集委員会(編),世界宗教百科事典(pp.98-101).丸善出版
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