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心理学史諸国探訪【第23回】

立命館大学総合心理学部教授/学部長 サトウタツヤ
フィリピン心理学の魅力は近代心理学を輸入した心理学者たちが、西洋由来の心理学だけではダメだと考えindigenous(原産、土着、固有)の心理学を発展させたところにあります。こうした動きはフィリピン国内の教育のあり方や政治的状況とも密接に関係していました。

サトウタツヤ

フィリピン─②

近代心理学の主要な特徴の一つは,感覚・知覚という低次精神機能について,実験という方法で明らかにしようとしたところにあります。そして,この姿勢は欧米以外のさまざまな国や地域にも伝播していきました。前号で見たように,フィリピンの心理学界は1960年代に大きく進展しました。こうした動きは,心理学という学範(ディシプリン)が内発的に発展したという面もあるでしょうが,それだけではありません。社会の要請によって学問がそのあり方を変えていくという面も無視できません。

さて,心理学史に限らず学問の歴史を執筆するためには,他の学問と同じように歴史叙述の方法論があり,それはヒストリオグラフィ(historiography)と呼ばれています。心理学という学問にさまざまな方法があるように,心理学史にもいくつかの方法論があるのです。ここでは内部主義と外部主義について説明しましょう。

内部主義とは,学範の内部のみの展開を記述する方法で,学説史のような形をとります。ある学問の発展を有力な人物や有力な学説の展開によって理解していきます。その一方,外部主義とは学問をそれが置かれた社会や時代との関係から読み解いていこうとするものです[1]

学問の歴史をその置かれた社会との関係で考察することは,心理学史における外部主義的アプローチということになるのです。

1965年にマルコス大統領が就任すると,彼は約20年にわたって独裁的な政権運営を行い,1970年代に入って特に多くの反対運動をひきおこしました。その1970年代にアメリカで博士号を取得してフィリピンに戻ってきたのがエンリケス(Virgilio G. Enriquez)です。

Virgilio G. Enriquez
Virgilio G. Enriquez(1942–1994)
https://en.wikipedia.org/wiki/Virgilio_Enriquez

エンリケスは西洋の心理学が用いている概念ではなく,自分たちの足もとの概念や考え方を用いて自分たちを理解すべきだとして,Sikolohiyang Pilipino(シコロヒヤン・ピリピノ;フィリピン心理学)を唱道しました。ただし,心理学(者)だけがindigenous(原産,土着,固有)を志向したわけではなく,歴史学や人類学など他の多くの学問でも同時多発的に同じことが起きていました[2]

フィリピンでは日常生活の言語(フィリピン語)と高等教育のための言語(英語)の使い分けが行われていました。言語は思考体系を調整する側面があるため,自ずと西洋的な枠で自分たちを規定しまっていたのでした。このことに最初に気づいたのはおそらく歴史学であり,自分たちの歴史を英語でのみ記述することへの疑問が広がっていきました。また,当時のマルコス大統領の圧政に対する抵抗運動も民衆の健全な愛国心を高め,フィリピン人の「フィリピン人としての意識」を高めたようでした。

エンリケスたちの一世代前にあたる歴史家のレナト・コンスタンティーノ(Renato Constantino;1919–1999)は,フィリピンにおける英語を用いた教育について,「英語の使用によって私たちは文化遺産から切り離され,一方で,英語圏における最高の文化を私たちが享受したわけではなく,歌謡曲やコミックなどに毒されている。そして,アメリカの慣習は素晴らしく,自国の基準や慣習は劣っているという劣等感が生まれた」というような辛辣な印象を持っていました。

社会全体の,英語による教育への疑問が,多くの学問におけるindigenous思想の重要性を涵養し,心理学におけるエンリケスらの活動へとつながっていくのです。学問の発展には,学問の外からの影響が大きいことがわかります。

シコロヒヤン・ピリピノの詳しい内容については次号で扱います。

文献

  • 1.サトウタツヤ・高砂美樹(2022)流れを読む心理学史:世界と日本の心理学 補訂版.有斐閣
  • 2.Mendoza, S. (2006) Theoretical advances in the discourse of indigenization. In Between the home and the diaspora: The politics of theorizing Filipino and Filipino American identities: A second look at the post-structuralism-indigenization debates (2nd ed.). Routledge.

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