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【特集】
現代心理学の「心」の見方と徹底的行動主義の「心」の見方
丹野 貴行(たんの たかゆき)
Profile─丹野 貴行
2008年,慶應義塾大学大学院社会学研究科心理学専攻単位取得退学。博士(心理学)。日本学術振興会特別研究員PD(関西学院大学),文京学院大学人間学部心理学科助手を経て2015年より現職。専門は行動分析学。著書に『選好形成と意思決定』(分担執筆,勁草書房)など。
徹底的行動主義の基本的立場と行動分析学
徹底的行動主義(radical behaviorism)とは,B・F・スキナーにより提唱された心理学上の一つの立場である。それは単に行動の科学的研究を指すのではなく,心理学の主題とその研究方法論をめぐる哲学的立場を指す。ここでの心理学の主題は行動であり,それを環境との相互作用から研究する。具体的には,行動と環境の間で関数関係(functional relation)が見られる部分を同定し,それぞれを反応(クラス)と刺激(クラス)と相互に定義する。それが先行刺激と反応の関係であればレスポンデント,反応と後続刺激の関係であればオペラントとなる。関数関係の同定により行動の制御変数を明らかにし,それによって行動の予測と制御を実現するのが,この立場の理論目標(真理基準)である。1930年代にスキナーの研究成果を中心として,行動の制御変数を実験的に分析・同定する実験的行動分析(experimental analysis of behavior)がはじまった。そして1950年代より,その成果を社会的に重要な行動へと展開する応用行動分析(applied behavior analysis)が現れた。徹底的行動主義はこの両分野の哲学的基盤であり[1],そしてこれらの学問分野全体が行動分析学(behavior analysis)と総称されている。徹底的行動主義という用語はスキナーのオリジナルではないが,1945年にPsychological Review誌上で行われた操作主義シンポジウムにおいてスキナーがこの立場を自称し[2],徐々にそれがスキナーの立場を指すものとして定着した[3]。
徹底的行動主義への典型的な批判に,「心を無視して行動だけを見る心理学」というのを見聞きする。しかしこの批判は的外れである。また,スキナーとはやや異なる見解が,徹底的行動主義として論じられているケースも見られる。その読者層への徹底的行動主義の理解を優先させたものであろうが,しかしその真意を誤解させる恐れもある。本稿では,スキナーが論じたところの徹底的行動主義について,「心」をキーワードにしつつそれを整理する。
方法論的行動主義を引き継いだ現代心理学とその「心」の見方
米国の心理学では初期のころから行動も研究対象に含まれていたが,それを主義(ism)にまで昇華させたのはジョン・B・ワトソン[4]であった。当時の心理学の主題は意識経験,その主な研究方法論は実験的内観であった。ワトソンの主張は,その主題を行動へと置き換えようという革命的なものであった。現在それは古典的行動主義(classical behaviorism)と呼ばれている。
古典的行動主義には二つの側面があった。一つは,客観性という方法論上の要請から行動を扱うというもので,現在これは方法論的行動主義(methodological behaviorism)と呼ばれている。
方法論的行動主義は同時代の心理学者から多くの賛同を受け,そして次のように発展した。全体としては,客観性について,それをデータの水準から理論の水準へと押し進めようとした動きであったと言えよう。エドウィン・G・ボーリングとスタンリー・S・スティーブンスは,日常語(自然語)でもあるがゆえに多義的な心的概念を科学的概念として扱うために,その概念の指示対象についての社会的合意を重視した。そこで,客観的な行動データに基づき心的概念を操作的に定義するという,操作主義(operationism)へとたどりついた。また,エドワード・C・トールマンとクラーク・L・ハルを中心とするいわゆる新行動主義(neo behaviorism)は,ワトソンの行動主義における刺激(stimulus)-反応(response)の図式を刺激-個体(organism)-反応へと,SとRから操作的に定義されたOという媒介変数(intervening variable)を含むS–O–Rの図式へと発展させた。トールマンはOの名称に心的概念を積極的に充て,またハルはOについての仮説演繹法,公理系アプローチを体系化した。そうした中でOは,SとRから網羅的に定義された媒介変数ではなく,部分的に定義され剰余の意味も含む仮説構成体(hypothetical construct)へと変化した[5]。例えば「知能」は,それが「知能検査で測定された何か」を指示するのならば媒介変数であるが,その指示対象に「知能検査で測定されたこと以外の何か」も含むのならばそれは仮説構成体となる。
標準的な心理学史では,この行動主義的心理学への革命として,1950年代後半に認知心理学がもたらされたことになっている。それは実際のところ,上記のOの理解にあたり,そのアナロジーを反射から情報処理へと変えたものに過ぎない。ただそれによって,行動を主題とすることの気風がいくぶんなりとも残っていた新行動主義に対して,「認識」という古くからの哲学的問題を情報処理過程として扱いつつ,それを心理学の主題に据えるという,新たな流れが起きたのは確かであった[6]。
以上のように眺めれば,認知心理学を主軸とする現代心理学は,主題としてではなく方法論として行動を扱うという,方法論的行動主義を引き継いだものと言える。現代心理学者の多くは,方法論的な意味では,今もなお行動主義者なのである。
この方法論的行動主義の下では,「心」はどのように位置づけられているのか。操作主義の段階でのそれは,「心」の存在論は真偽検証のできない疑似問題として放棄する,心的概念は操作的定義を通した認識論的道具として扱うという,論理実証主義に倣ったものであった。しかし実際には,心的概念を操作的に定義することでその指示対象としての「心」の実在をむしろ積極的に仮定し,時にその実体を脳に求めるという,逆方向の動きがもたらされた。例えば,トールマン[7]は自身の「認知地図」概念を脳に絡めて議論し,また,認知心理学の創始者の一人であるジョージ・A・ミラー[8]は,情報処理のアナロジーとコンピュータ・シミュレーションによる行動再現により,認識過程の実在を示せると考えていた。方法論的行動主義を引き継いだ現代心理学は,特別な存在としての「心」を仮定し,それを行動や神経活動を通して間接的に知り得るという,ある種の心身二元論を包含した形となっている。
形而上学的行動主義の継承としての徹底的行動主義とその「心」の見方
ワトソンの古典的行動主義のもう一つの側面は,特別な存在としての「心」を仮定しない形而上学的行動主義(metaphysical behaviorism)であった。意識に固有の事実は存在しない,「心」とは行動以外の何物でもない,という見方である。ワトソンは,一方では意識経験を心理学の主題から外しつつも,他方ではイメージ,情動,思考といった問題を行動的に説明しようともした。例えば,私たちが思考と呼ぶものは,咽頭の潜在的(implicit)行動であると述べていた[4]。
形而上学的行動主義への同時代の心理学者の反応は冷ややかなものであった。それは厳格(strict)や極端(extreme)などと揶揄的に表現された。ワトソン自身ですらその見方を“I am becoming too radical”と認めていた[9]。
しかしそうした風潮がなお残っていたであろう1945年に,前述の操作主義シンポジウムの論文において,スキナーは自らの立場を徹底的行動主義と称した。それは,ボーリングとスティーブンスの操作主義は心身二元論を許容する「方法論的」行動主義に過ぎないと批判しつつ,代わりに行動一元論とも呼べる形而上学的行動主義の継承を主張するものであった。ここでは,「心を無視」と「心的概念の敬遠」という2点から,徹底的行動主義の「心」の見方を論じる。
徹底的行動主義は「心を無視」しているのだろうか。そうではない。むしろ,心理学のもともとの主題であった意識経験を行動の一種として扱うことで,それを心理学の範囲に留めている。私たちヒトの言語共同体は,赤色刺激への言語反応“アカ”を強化する色弁別訓練と同じように,「あなたは何をしようとしているのか?」「あなたはなぜそれをしたのか?」を問う形で,自らの行動や身体状態の弁別訓練をその成員に課す。私たちは,それを通して,「手を洗っている」「お腹が空いている」「不安を感じている」といった自己記述行動を獲得する。その範囲は,手洗いといった他者にも観察可能な公的事象(public event)のみならず,空腹感や不安感のように,皮膚の内側で生起し当人にしか感知し得ない私的事象(private event)へも拡がる。また,それは当初は顕現的(overt)な形で獲得されるが,やがてその多くは非顕現的(covert)な形へと移行していく(内言化)。私的事象についての非顕現的な自己記述行動ともなれば,定義上それは他者から一切観察されていない。そして私たちの言語共同体は,そうした自己記述行動を指して,「意識経験」と呼んでいるのだと考える。
ここで重要なのは,上記の形で定義された意識経験の存在論的地位である。それは特別な次元での出来事ではなく,公的・顕現的な行動と同一の物理的次元での出来事となる。こうして,意識に固有の事実は存在しない,心とは行動以外の何物でもないという見解が導かれる。「心を無視」とは,「行動とは別に心が存在しているのにそれを無視している」という批判であろう。つまりは心身二元論がその前提にある。しかし徹底的行動主義は,私たちが心と呼ぶものは実際には行動として存在しているという行動一元論の見方であり,この意味で上記の批判は的外れなのである。スキナー[10]は次のように述べている。
“行動の科学は,物理的事物としての私的刺激の位置づけを考慮しなければならず,そうすることは心的営み(mental life)への代わりの説明をもたらす。問題は次の通りである:皮膚の内側には何があり,私たちはそれについてどのように知るのか。私は,その回答が徹底的行動主義の核心(heart)であると信じている。” (著者訳)
こうした「心」の見方を支持するものとして,薬物弁別実験を挙げる。被験体に,生理的食塩水もしくは任意の薬物を所定の用量投与し,その弁別を課す。当該被験体は,自らの身体状態を弁別刺激として,その弁別を行うことになる。薬物にもよるが,この手続きにより,典型的な用量-反応曲線を得ることができる。薬物弁別実験は,弁別訓練による意識経験形成の一つの例証となっている。
次に「心的概念の敬遠」を論じる。突然だが,「愛」と「恋」はどのように違うだろうか? 因子分析などを用いて「愛」と「恋」の尺度構成を行えばそれが明らかになるだろうか。あるいは,「愛」と「恋」の違いを行動的に定義し,その違いに相関する神経活動を探究すればよいだろうか。そうしたアプローチもあるだろう。しかし徹底的行動主義者は,そもそもこの問いはどこから来ているのかを考える。「愛」も「恋」も言語行動である。それは,日本語言語共同体が整置した強化随伴性の下で,何かしらの事象を弁別刺激として,「愛」もしくは「恋」と述べることの反応分化が生じているという現象である。すると,「愛」と「恋」の違いの探究は,その言語行動を支える言語随伴性の分析という,語源学,社会学,文化人類学的なアプローチへと帰着する。「梅雨」と「秋雨」とを区別する理由が雨の側にではなく日本語・日本文化の側にあるように,「愛」と「恋」とを区別する理由もまた個体の側にではなく日本語・日本文化の側にある。これこそが,スキナーが徹底的行動主義を自称した論文題2,“心理学用語の操作的分析”の真意である。「愛」と「恋」の操作的分析とは,そこに二者間の合意が得られる操作的定義を見いだすという問題ではなく,その言語使用を支える言語随伴性の分析という問題なのだと考えるのである。
これには続きがある。上記の分析を通して心的概念の意味が明らかになったとして,その成果はどれほど有益なものだろうか。私たち心理学者の仕事は,私たちの言語共同体で用いられている心的概念の意味をそうした形で明らかにしていくことだろうか。それとも,心的概念を用いて説明されているところの行動に注目し,その予測と制御を向上させることだろうか。現代心理学の役割はこの両者に及んでいるのであろうし,実際に上記例の「恋」と「愛」の研究領域[11]はそうした形になっているように思われる。しかし徹底的行動主義者は,前者をできるだけ切り捨て,そして後者を重視する。スキナーは,「意識」や「意志」といった心的概念に,「フロギストン(燃素)」以上に恒久的な地位を保つ理由はないと考えた。18世紀の化学者における「フロギストン」の意味の分析は歴史的・社会的な関心事に過ぎず,そして心的概念の意味の分析もそれと同じことではないか。また,日常語とも重なる心的概念の使用は,心理学内部と外部の2種類の言語随伴性の制御をそこに重ねることとなり,心理学者はその間を揺れ動くことになる[12]。こうしたことを避け,行動データを要約的に記述するために考案された造語である(ので日常語の言語随伴性の制御を受けない)レスポンデントやオペラントといった行動的概念を用いつつ,行動の制御変数を実験的に分析・同定していくことのほうが,心理学にとって有益ではないのか。こうした考え方が,徹底的行動主義における「心的概念の敬遠」と結びつくのである[13]。
「心」の見方の相違のより根本にあるもの─「心的な構造」と「行動の機能」
例えば,ある人物の挙手行動が観察されたとして,その行動の意味を考えてみよう。それはタクシーを止めたいのか? あるいは知人への何かの合図なのか?
徹底的行動主義への批判に,挙手行動を見ただけではその行動の意味は見いだせない,個体の心的状態を含めてこそ,その意味が見いだせるというものがある。しかし,徹底的行動主義者も,ただ挙手行動を観察すればよいなどとは考えてはいない。その行動の意味は,タクシーなり友人なりといった環境事象との相互作用の中に見いだされるというのが,その考え方なのである。
この相違は次のように整理されよう。すなわち,個体の内部に行為主体(agency)を仮定し,行動の意味をその行為主体の「構造(structure)」へと帰属させ,それを心的概念で記述するのか。あるいは,行動の意味を行動と環境(ただしこの環境には個体内部の身体状態も含まれる)の相互作用から立ち現れる行動の「機能(function)」へと帰属させ,それを心的概念ないしは行動的概念で記述しようとするのか。心理学史の中心は前者の見方であった。それはヴィルヘルム・M・ヴント-エドワード・ティチナーのいわゆる構成主義と親和的であり,ハルとトールマンの新行動主義でも部分的に受け継がれ,そして認知心理学で心理学の中心となった。しかし後者の見方もまた,フランツ・ブレンターノの作用心理学,ある種の米国機能主義,ジェイコブ・R・カンターの相互行動心理学,ジェームズ・J・ギブソンの生態学的心理学など,心理学史の中で繰り返し現れてきた。そして徹底的行動主義はこの後者の系譜に連なるものである。
心理学は「心」の「理」の「学」であるが,そこでの「心」とは何を指示するものなのか。言い方を変えれば,心理学者が明らかにしたい「心」とはどのような存在なのか。それは個体内部の「心的な構造」なのか,それとも個体と環境の相互作用から立ち現れる「行動の機能」なのか[14]。「心」をめぐるこの見方の相違こそ,スキナーが論じるところの「徹底的行動主義」の重要論点なのである(図1)。
文献
- 1.行動分析学における徹底的行動主義の位置づけのさらなる議論については,『行動分析学研究』誌上で組まれた特集「「徹底的行動主義の現代的位置づけをめぐる諸論」の発行にあたって」を参照されたい(丹野貴行・竹内康二(2021)行動分析学研究, 35, 108–110.)。
- 2.Skinner, B. F. (1945) Psychol Rev, 52, 270–277, 291–294.
- 3.Schneider, S. M., & Morris, E. K. (1987) Behav Anal, 10, 27–39.
- 4.Watson, J. B. (1913) Psychol Rev, 20, 158–177.
- 5.MacCorquodale, K., & Meehl, P. E. (1948) Psychol Rev, 55, 95–107.
- 6.ガードナー, H./佐伯胖・海保博之監訳 (1987) 認知革命:知の科学の誕生と展開. 産業図書
- 7.Tolman, E. C. (1948) Psychol Rev, 55, 189–208.
- 8.ミラー, G. A. 他/十島雍蔵他訳 (1980) プランと行動の構造:心理サイバネティクス序説. 誠信書房
- 9.Watson, J. B. (1913) J Philos Psychol Sci Meth, 10, 421–428
- 10.Skinner, B. F. (1976) About behaviorism (p.233). Vintage.
- 11.髙坂康雅(2016)恋愛心理学特論:恋愛する青年/しない青年の読み解き方. 福村出版
- 12.たとえば,知能テストで測定されているところの「知能」は私たちの日常語で指示されているところの「知能」とどの程度一致しているのか,あるいは知能テストで採用されているところの「知能」の操作的定義にどれほどの社会的合意が得られているのか,こうした問題がこれに当たる。
- 13.意識経験と心的概念へのこうした見方は,同時代に活躍した哲学者ウィトゲンシュタイン,ライル,オースティンらと共通している。たとえばウィトゲンシュタイン(ウィトゲンシュタイン, L./鬼界彰夫訳(2023)哲学探究. 講談社)は「すべての場合ではないが─,ある語の意味とは言語におけるその使用である(43節)」と述べている。脚注2のスキナーの論文はその「使用」を言語随伴性の観点から解釈してみせたものだと言えよう。
- 14.この相違はデカルト的マインドとアリストテレス的プシケの相違とも表現できるだろう。
- *COI:本記事に関連して開示すべき利益相反はない。
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