公益社団法人 日本心理学会

詳細検索

心理学ワールド 絞込み


号 ~

執筆・投稿の手びき 絞込み

MENU

刊行物

あなたの周りの心理学

心は測れるのでしょうか?

仲嶺 真
荒川出版会 会長 国際経済労働研究所社会心理研究事業部 研究員

仲嶺 真(なかみね しん)

Profile─仲嶺 真
1989年生まれ,沖縄県出身。筑波大学大学院人間総合科学研究科心理学専攻博士後期課程修了。博士(心理学)。専門は心理学論,恋愛論。著書に『恋の悩みの科学:データに基づく身近な心理の分析』(分担執筆,福村出版)など。

測れます。しかし,それは「心の測定」ができるということを意味しません。言葉遊び?ではありません。この違いに敏感になることは極めて重要な意味をもちます。というのも,私たちは言葉によって誤解し,誤解に基づいた行為を正しいものだと勘違いしてしまうからです。

測ると測定は同じではない

「測る」を広辞苑(第七版)で調べると,大別して2つの意味があります。1つは「数量を調べて知る」(測定する),もう1つは「物事を推し考える」(推しはかる)です。ここから,「測定する」と「推しはかる」が別の意味であることがわかります。私たちは,たしかに,たとえば「あの人を怒らせちゃったかな」などと心を推しはかることは日常的によく行いますが,そのときに数量を調べて知ることはできていません。「推しはかれる」からといって必ずしも「測定できる」わけではありません。

ちなみに,以上の観点からみると,「心は測れるのでしょうか?─測れます」という先の回答は十分ではありませんでした。すなわち,「測る」には2つの意味があるため,「測れます」という回答には,「心を推しはかるという意味で“測る”を使うのであれば」という留保を伴う必要がありました。

心の「量」は言語表現である

先ほど,「あの人を怒らせちゃったかな」などと心を推しはかることは日常的によく行いますと書きました。もしかしたら,「あの人をちょっと怒らせちゃったかな」というように,量(ちょっと,それなり,かなり,など)を知ろうとしている,すなわち,「数量を調べて知る」も日常的によく行っており,その意味で「心の測定」をしている,ひいては,「心の測定」ができるのではないかと思うかもしれません。

たしかにそう思えますが,ここで問題となるのは量とは何かです。オーストラリアの心理学者ミッシェルによれば,量という概念にとって重要な条件の1つは「ある大きさは別の2つの大きさに分割できる」ということです[1]。たとえば,異なる長さaと長さbがあったとき,a=b+cまたはb=a+cとなるcがあるということです。

ここで,「かなりの怒り」(怒りのレベルa)は,「それなりの怒り」(怒りのレベルb)と「ちょっとの怒り」(怒りのレベルc)に分割できるのか,すこし考えてみてほしいと思います。あるいは,以下のように考えてもらってもかまいません。「今日はかなり怒り心頭だった。これはこの前の強めの怒りと,昨日の弱めの怒りを合計したくらいの怒りレベルだ」─おかしいと思いませんか? 私たちは怒り(心)を分割(あるいは足し算)して考えることは基本的にはしません。心というのは少なくとも上記で定式化されるような量にはそぐわないと考えられます[2]

分割(あるいは足し算)できる量ではないかもしれないが,「ちょっと」は「それなり」より大きく,「かなり」は「ちょっと」や「それなり」より大きいなど,順序関係という量はあるのではないか,その量として,「心の測定」はできるのではないかと思う場合もあるかもしれません。よくよく考えてみたいと思います。たとえば,ふだんは菩薩のような優しさを示す玉那覇(たまなは)さんが「この前のこと,私は結構怒っています」と言ったとします。これは本当に「結構」と考えていいのでしょうか。本当に「結構」なのかもしれませんし,「結構」と言っただけかもしれません。また,玉那覇さんの中で「結構」と「かなり」と「それなり」の順序がどうなっているのかも一概にはいえません[3]。また,玉那覇さんの発言を聞いて,ふだんから怒りっぽい照屋(てるや)さんが「そう!私も結構怒っています!」と言ったとします。このときの「結構」が本当に「結構」なのかどうかもわからないですし,玉那覇さんと同じ「結構」なのかもわかりません[4]

以上から明らかなように,量的に表現できることと量があることはまったく違うわけです。

私たちは心の「量」を測ろうとしているのか

そもそも,「私は結構怒っています」という心を測る場面において大事なのは,「結構」という(怒りの)量なのでしょうか。そうではなくて,「結構怒っています」と言うことで何が為されているかのほうではないでしょうか(たとえば,少し気を遣ってほしいなど,何かの改善の要求なのかもしれません)。また,心の量を測ることが大事なように思える場面においても,大事なのは「量を測ること」ではなく,量的な言語表現を通じて何が為されているのかのほうではないでしょうか。たとえば,患者さんのつらさを知るために「感じている痛みの強さを0から10で評価するとどれくらい?」と尋ね,患者さんが「8」と答えたとき,大事なのは「痛みが8である」ということではなく,「痛みが8である」と報告することで何が為されているのか(つらさの表明なのか,まだ我慢できるということなのか,いつも通りということなのか,など)だと思われます。

このように,私たちは心を量的に表現しますが,それは量を示しているのではなく,量的表現を通じて何かが為されており,私たちが測りたいのは,そこで何が為されているのかだと考えられます[5]

心を測るは活動をともにすることで実現される

推しはかるという意味であれば,心は測れます。では,それはどのようにできるのでしょうか。簡単です。一緒に活動をすればいいのです。玉那覇さんが「この前のこと,私は結構怒っています」と言うことで何が為されているのか(その心)がわかるのは,玉那覇さんとともに過ごしていた(ふだんは菩薩のようだ)からです。ツンデレな人物の「きらい」が嫌いではないとわかるのは,その人とともに過ごしていた(ツンデレだとわかる)からです。実験室で実験したり,心理尺度[6]を使ったりすることによるものではありません[7]。「神」の視点で心を測ることは,神でない限りできないのです。

人間である私たちにできるのはもっと地道なことです。すなわち,心を測りたい相手のある行為において何が為されているのかと(哲学的に,と同時に,エスノメソドロジー的に)考え,その相手とともに活動をする。これが人間としての心の測り方なのだとさしあたり私は考えています。

文献

  • 1.この条件は,ドイツの数学者ヘルダーによって定式化されました。Michell, J. (1997) Br J Psychol, 88, 355-383.
  • 2.Franz, D. J. (2022) Theory Psychol, 32, 131-150.
  • 3.以下も参照。神谷直樹他(2013)バイオメディカル・ファジィ・システム学会誌, 15, 71-77./神谷直樹他(2015)バイオメディカル・ファジィ・システム学会誌, 17, 17-22.
  • 4.玉那覇さん(ないしは照屋さん)における比較と,玉那覇さんと照屋さんとの比較は,心理学的にはまったく違う比較をしています。詳細は以下を参照。下司忠大(2024)個人間構造と個人内構造:心理尺度の因子の意味. https://www.note.kanekoshobo.co.jp/n/n95d69c64dd69
  • 5.このように,普通に社会を生きている人たちが社会生活を営むのに用いている方法論,および,その方法論を探究する学問をともにエスノメソドロジーとよびます。詳細は以下を参照。前田泰樹他(2007)エスノメソドロジー:人々の実践から学ぶ. 新曜社
  • 6.心理現象を測定すると言われている方法の一つで,「心の物差し」と言われることもあります。 7 それらでわかることもありますが,それらは極めて特殊かつ限定的な「心の測り方」です。それらがどのような特殊な営みであるかの一例は,以下で分析されています。西阪仰 (2001) 心と行為:エスノメソドロジーの視点. 岩波書店

PDFをダウンロード

1