専門分野と専門外分野
小川 俊樹(おがわ としき)
2012年にロールシャッハ・テストを専門とする臨床心理学分野の教員として,筑波大学を定年退職した。そこから遡ること30年ほど前の大学発足時は,非常勤講師として大きさの恒常性の知覚実験を担当していた。こう述べると宗旨替えしたのではないかと思われがちである。確かに大学院では実験心理学専攻であったので,専門分野が変わったと言えるのかもしれないし,そう見られがちかとも思う。しかし個人的にはそれほど変わったとも思っていないのである。というのも,心理学への関心は物理的世界と違って見える心理的世界に関心を持ったのが始まりであるが,その研究方法として,ある意味では一般的な方法を取らなかったから自分ではそう思うのかもしれない。知覚対象がそう見えるのは何故かを明らかにする場合,通常は見えることの分析から始まるが,振り返ってみるとそのようなアプローチを取らなかったのである。むしろどうしてそう見えないのかが分かれば見えることも理解できるのではないかと考えたからである。したがって,大きさの恒常性の乏しい参加者の知覚研究とか,通常は錯視図形であるミューラー・リヤー図形の触覚的な錯覚(haptic illusion)の実験などを行っていた。ミューラー・リヤー図形の主線が,触って長さが異なって知覚され得るということは,読者の中には錯覚ではなくて幻覚(hallucination)ではないかと思われる人もおられるかもしれない。
ところでロールシャッハ・テストは臨床心理学分野の代表的な心理テストであるが,その基盤は視知覚である。ヘルマン・ロールシャッハのマニュアル本の副題には,「ある知覚診断的実験の結果」とある。奥行き感には対象の大小による線形遠近感と濃淡に基づく肌理の勾配があるが,ロールシャッハ・テストでの奥行き感反応はこの2種類を区別して記号化される。ロールシャッハ・テストの公刊が1921年,ギブソンの肌理の勾配の発表が1950年であることを考えると,専門分野の枠を超えての連結(liaison)ないし交通(Kommunikation)があったならばそれぞれに大きな刺激となっていたのではなかろうか。今日では色彩反応と側頭葉灰白質容積との相関を認める研究もあり,これなど臨床心理学と神経心理学との連結ないし交通であろう。『相違は分析の母,相似は発明の父』という言葉があるとのことだが,専門分野での相違に,そして専門外分野での類似に関心を向けることは新しいアイディアを産むことになるのではないだろうかと密かに考えたりしている。

Profile─小川 俊樹
1975年,東京教育大学大学院(実験心理学専攻)博士課程中退。医学博士(順天堂大学)。1975年,茨城大学保健管理センター講師。1983年,筑波大学心理学系専任講師となり,助教授,教授を経て2012年定年退職。同年より2017年まで放送大学教授。専門は臨床心理学・病態心理学。著書に『臨床認知心理学』(共編,東京大学出版会),『投影法の現在』(編著,至文堂),『臨床心理学特論(’17)』(共編,放送大学教育振興会),『ロールシャッハ法の最前線』(編著,岩崎学術出版社)など。
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