【第27回】
学校法人立命館・副総長/立命館大学総合心理学部教授 サトウタツヤ
今、話題を呼んでいる政治と学問(の自由)の問題は、さまざまな時と所でおきています。英国出張からの空路・トルコ上空でトルコについて書いている偶然を楽しんでいます。

トルコ─③
ムザフェル・シェリフ(Muzafer Sherif;1906–1988)は,1906年にトルコのバソグル家で生を享けました。彼は1927年にイズミルのアメリカン・インターナショナル・カレッジで学士号を取得し,ついで国内で修士号を取得しました。その後,彼は1929年に政府奨学金を得てアメリカのハーバード大学に留学しますが,その時に姓をシェリフに変えました。彼は2つ目の修士号を得た後にコロンビア大学で博士号を取得します。そしてその内容を『社会規範の心理学』として発表し(1936)注目を集めました。
シェリフの研究の原点は第一次世界大戦での少年時代の体験です。彼は「物事に対する好奇心が旺盛だった思春期の私は,戦争の影響を目の当たりにした。飢餓も見た。国籍の違いで殺された人々も見た」と述べています[1]。イズミルが占領された時に奇跡的に生き延びた経験から,集団間の関係性や偏見の心理学的メカニズムへの関心が生まれたようなのです。
シェリフが1939年にトルコに戻ってきた当時,トルコ政府は,西洋化を推進するためにナチスドイツから迫害されたユダヤ人学者を受け入れつつも,ナチスドイツとは敵対しないという複雑な立場をとっていました。彼は,アンカラのガジ研究所の助教授として「知覚におけるいくつかの社会的要因」という画期的研究を行いました。この研究では暗闇で静止した光点を見続けると光点が動いているように知覚してしまうという自動運動錯視現象を利用しました。どれくらい点が移動したのかを尋ねると,個人で見ている時の報告は何度やってもその距離はバラバラなままでしたが,集団で見てその移動距離を全員が順番に回答していくと,何度かやっているうちに集団全体の移動した距離がある長さに収束しました。つまり「規範」が形成されるメカニズムを明らかにしたのです。
アンカラはイスタンブールと違ってマルクス主義に親和的な社会科学者がサークルを作っており,シェリフもその輪に入りました。1944年,トルコ政府は共産主義者と反ファシスト教員の大量逮捕に踏み切ります。その際にシェリフは投獄され,「国益に反する行動[2]」の罪で起訴され,独房に入れられてしまいます。釈放後の1945年にはアメリカへ亡命しました。プリンストン大学などを経てオクラホマ大学で長く研究・教育に従事することになります。1950年代のマッカーシー上院議員による「赤狩り」時代には身動きがとれない状況に置かれましたが,キャロリン・ウッド(Carolyn Wood; 1922–1982)と結婚し3人の子に恵まれ,力をあわせて研究を続けました[3]。1953年にはオクラホマの「強盗洞窟」公園で,少年たちを2つの班にわけ,お互いに競わせ,その後は危機状態で協力するように仕向けました。まず,有限の資源をめぐる競争は敵対心や偏見を生み出すこと,次に,共通目標のために協力することによって課題解決が可能な場合には敵対心や偏見は無くなることを示したのです。これは「現実的コンフリクト理論」として知られています。



文献
- 1.Sherif, M. (1967) Social interaction: Process and products (p.9). Aldine Publishing.
- 2.Trotter, R. J. (1985, September) Psychology Today, 19, 54–59.
- 3.Harvey, O. J. (1989) Am Psychol, 44, 1325–1326.
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