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裏から読んでも心理学

追いつ追われつ

慶應義塾大学文学部 教授

平石 界

テクノロジーの進歩とはありがたいもので,なんとなくインストールした英文校正アプリがあらゆる場面で間違いを修正しまくってくれて助かります。ただちょっといただけないのが文体に合わせた提案ってやつで,「academicで」と言ってるのに,やたらと「受動ではなくて能動にしませんか」と勧めてくるんです。“I”みたいな主語を避けるために受動態を使うことって,論文ではそれなりにあると思うんですが,とにかく「能動でいこう!」と言ってきて,ちょっとうるさい。

いつでも能動態が正しいわけじゃないと言えば「牛追い祭り」でしょうか。初めてテレビで見たときに「スペインのパンプローナで,人々が雄牛を追い立てて街なかを走り抜ける勇壮なお祭りが開かれました」みたいに紹介されてたのですが,画面に映っているのは,どう見ても牛に追い立てられて逃げ惑う人たち。これは「牛追い祭り」じゃなくて「牛追われ祭り」が正しいんじゃなかろうか。

と言っても画面の外では誰かが牛を追っているのかも知れないと,そのまま追求せずに幾星霜。疑問を放置したままは良くない!と一念発起して,Parisiさんら(2021)の論文に取り組んでみました。牛追い祭りの走者の動態を工学や物理の専門家が分析したもので,知らない概念の頻出に手こずったものの,積年の疑問については冒頭の一文であっという間に解決されました。曰く,

The world-famous Running of the Bulls (San Fermín) Festival constitutes a unique system of pedestrians running away from bulls in the streets of Pamplona (Spain).
(意訳)世界的に有名な牛走祭は,パンプローナの通りを人々が牛から逃げつつ駆け抜けるユニークなイベントです。

「ですよねー」と思わず呟いてしまいました。もうこの時点でかなり満足してしまったのですが,せっかくなので続きも読んでみましょう。

この手の群衆運動を研究する際には,一人ひとりの走者の速度と,その人まわりの密度の関係を見るのが定番のアプローチのよう。過去の研究から速度と密度が負に相関することが知られてきたそうで,つまり人が密集すると走るスピードが落ちる。そりゃそうだ。

ところが牛追い祭りでは,速度と密度が正に相関するフェーズがある。これまで報告されていない発見だ!というのが論文の売り。なぜそんなことになるのか。分析対象となったEstafeta通りの入口に牛が達したところで,牛に追われた人たちが通りになだれ込み,同時に,牛の到着を待ちつつ通りに滞留していた人たちも突然フルスロットルで駆け出すため,密度と速度がいっぺんに大きくなるということのようです。

と,淡々と書きましたが,本稿のためにと牛追い祭りのYouTubeを数本みただけのニワカですら「あー,Estafeta前のカーブも色々あるんだろうなぁ」などと思ってしまうほど,この祭のダイナミクスは魅力に溢れています。論文の著者たちも「本稿の結果を理解するには,祭の進行を良く知ってもらう必要がある」と,アカデミックな文章らしく筆致は抑えつつも,相当な紙幅を割いて説明しています。モットカタリタイヨ。

ところでこんな分析ができるようになったのも,高性能の撮影機器と,多数の走者をマーキングして分析できるソフトウェアのおかげ。あまつさえ,論文の読者が「ちなみに,そもそもスペイン語のencierroは“牛追い”と“牛追われ”のどちらの意味なの?」などという雑な質問をChatGPTに投げればそれっぽい回答が得られるのですから,テクノロジー万歳。ただ最近はGPTさんに課題を投げてレポートを書いてもらう学生もいるらしく,対抗してAI剽窃チェッカーなんてものも出てきて,現実はまぁ,追いつつ,追われつつ,ですね。

Profile─ひらいし かい
東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。東京大学,京都大学,安田女子大学を経て,2015年4月より慶應義塾大学。博士(学術)。専門は進化心理学。

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