【小特集】
私たちはなぜ旅に出る?
癒やし,非日常,それとも仕事? 本小特集では主に観光心理学の視点から,私たちが旅に出る理由を紐解きます。旅の動機の解説から,聖地巡礼やワーケーションといった新しい旅まで,多様化する観光や旅行のスタイルを紹介します。さあ,ページをめくってあなたにぴったりの旅を探してみませんか?(福田実奈)
観光心理学とは何か

小口 孝司(おぐち たかし)
Profile─小口 孝司
東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。2009年より現職。専門は観光心理学,社会心理学,産業・組織心理学。著書に『観光の社会心理学』(編著,北大路書房)など。
国連世界観光機関と国連開発計画による報告書では,観光は概ね世界GDPの10%,世界の雇用の10人に1人,世界輸出の7%を占める重要な活動として位置づけられている[1]。コロナ禍後においても,旅行・観光は世界経済と雇用に大きく寄与する分野であり,コロナ禍前を上回る水準に回復している[2]。日本においても,観光は人気の高い余暇活動の一つであり,国内観光旅行は,日本人にとって参加者数の多い代表的な余暇活動である[3]。なお,本稿では「観光」と「旅行」をほぼ同義に用いる。
個人の経験から見ても,旅行は日常を離れて新しい場所や人々に出会い,さらには卒業,結婚などの人生の節目に行われることが多いことから,旅行は記憶に刻まれやすく,意義深い経験となりやすい。
さらに,観光は経験的消費の代表例でもある。経験的消費は,物質的消費に比べて,体験を待つとき,体験しているとき,体験を思い返すときのいずれにおいても,幸福感や満足感をもたらしやすいことが示されている[4]。また,旅行,旅行以外の経験的消費と物質的消費とを比較すると,旅行がもっとも高い満足につながることも報告されている[5]。こうした点からも,観光は人々の生活において重要な意味をもつ経験だといえる。
国際的な学術誌を見ると,旅行者の行動や観光地での経験を扱うツーリズム研究と,宿泊,飲食,サービスを扱うホスピタリティ研究が,観光研究の大きな柱となっている。言い換えれば,観光研究には,旅をする人と旅を支えるサービスとの二つの側面があり,この二つは社会心理学と産業・組織心理学に重なる論点も多い。観光を理解するうえで,心理学的視点は欠かせない。
このように考えると,観光心理学とは,観光に関わる多様な主体の心理的機能を扱う学問領域として位置づけることができる。ここでいう主体には,観光者,従業員,住民,ホストコミュニティなどが含まれる。また,心理的機能には,認知,感情,動機,行動,ウェルビーイングなどが含まれる。観光は表面的には経済活動の一つであるが,その深層には,自己成長,心の回復,社会的関係の形成,文化的学習,自己の再構築といった側面がある。観光心理学は,こうした観光の内面に光を当てる領域なのである。
観光経験の心理過程
観光経験は,旅行前,旅行中,旅行後という流れで把握できる[6]。旅行前には,目的地への期待や想像がふくらみ,何を見たいか,何をしたいかといった見通しが形づくられる。旅行中には,自然,文化,食,景観,人との出会いなど,さまざまな刺激が知覚され,それらが感情や解釈と結びつきながら経験として積み重なっていく。旅行後には,その経験が思い返され,記憶として整理され,自分なりの意味が見いだされていく。観光が特別な経験として残りやすいのは,日常とは異なる時間や空間のなかで,しばしば強い感情が伴うからである。観光心理学が,認知,感情,記憶の結びつきを重視するのはそのためである。
感情と体験価値
観光は,感情と深く結びついた現象である。観光地での経験は,「楽しかった」「心が動いた」といった感情的評価によって大きく左右される。観光者の感情経験を測定した研究では,喜び,愛着,ポジティブな驚きなどが,観光体験を特徴づける重要な側面として示されており,同時に,こうした感情経験は満足と関連し,その後の再訪意図や推奨意図にもつながるという[7]。観光の価値は,何を見たか,どこへ行ったかだけで決まるのではない。体験をどのように感じたかが,その価値の大きな部分を形づくるのである。
旅行動機と意思決定
観光行動の出発点には,旅行者の動機がある。古典的な理論では,観光動機は,日常生活から離れたい,休息したいといった内的欲求と,目的地の自然,文化,社会的魅力などの外的誘因との両面から説明されてきた[8]。さらに,旅行経験やライフステージに応じて,重視される動機が変化するという考え方も示されている[9]。旅行経験が少ない段階では安心感や休息が重視されやすい一方,経験を重ねるにつれて,自己成長やより深い文化理解などが重要になるという。観光動機は,固定的なものではなく,経験とともに変化するものと理解されている。
また,観光は時間と費用を必要とし,実際に行ってみるまで体験の質を完全には知ることができない。そのため旅行者は,期待だけでなく,不安や迷いも抱えながら意思決定を行う。観光における意思決定には,費用や時間だけでなく,リスク知覚,不確実性,過去の旅行経験など,さまざまな要因が関わっており,観光の意思決定とは,夢や期待と現実的制約とのあいだで行われる心理的調整の過程でもある[10]。
観光とウェルビーイング
近年の観光心理学において,特に重要なテーマの一つは,観光が人々のウェルビーイングにどのように関わるのかという問いである。観光と生活の質に関する研究では,観光が主観的幸福感や生活の質とどのように関わるかが検討されてきた[11]。
また,ポジティブ心理学の観点からは,観光は一時的な楽しさや満足だけでなく,意味,達成感,自己成長,他者とのつながりとも関わりうることが示されている[12]。観光の魅力は,単なる気分転換にとどまらない。新しい景観や文化にふれ,ふだんとは異なる時間の流れを味わうことは,人が自分自身や他者との関係を見つめ直す機会にもなりうる。観光は消費行動であると同時に,人の心や生活の質に働きかける経験なのである。
ただし,観光は混雑,疲労,文化的摩擦,不安など,感情や満足を低下させることもある。こうした負の経験を理解し,よりよい観光経験につなげることも,重要な課題である。
ホスピタリティ
観光心理学を考えるうえで,ホスピタリティも重要なテーマである。観光体験がどのように感じられ,どのような意味をもつかは,自然環境や文化資源だけでなく,人と人との相互作用の質にも大きく左右されるからである。ホスピタリティは,家庭や親しい関係のなかで営まれるもてなし,社会的な規範や関係性のなかで成立するもてなし,そしてサービス産業として提供されるもてなしという三つの側面から理解されてきた[13]。さらに近年では,ホスピタリティは単なる商業的サービスではなく,出会い,感情経験,人間的相互作用を通して形成される関係的経験としても論じられている[14]。観光における満足や記憶は,施設や設備だけでなく,自分がどのように迎えられ,どのように扱われたかという感覚にも大きく左右されるのである。
観光心理学の意義
観光は多様な要素を含む複合的な人間行動であり,その理解には多面的な心理学的視点が不可欠である。心理学にとっても,日常を離れた状況における人の心理機能を考えることは,新たな研究視座を拓く可能性がある。
観光心理学は,観光現象のみならず,人間行動や経験の豊かさ,さらには観光地に暮らす住民のウェルビーイングを考察する領域である。その知見は観光経験や人々の生活の質の向上にもつながりうる点で,学術的にも社会的にも大きな意義がある。
文献
- 1.World Tourism Organization and United Nations Development Programme (2018) Tourism and the Sustainable Development Goals – Journey to 2030. World Tourism Organization.
- 2.World Travel & Tourism Council (2026) Travel & Tourism sees best year ever, outpacing the global economy in 2025. WTTC.
- 3.日本生産性本部 (2025) レジャー白書2025. https://www.jpc-net.jp/research/detail/007771.html
- 4.Kumar, A. (2022) Curr Opin Psychol, 46, 101343.
- 5.Fuchs, G. et al. (2015) Tourism Anal, 20(5), 499–509.
- 6.Larsen, S. (2007) Scand J Hosp Tour, 7(1), 7–18.
- 7.Hosany, S., & Gilbert, D. (2010) J Travel Res, 49(4), 513–526.
- 8.Crompton, J. L. (1979) Ann Tour Res, 6(4), 408–424.
- 9.Pearce, P. L. (2005) Tourist behaviour: Themes and conceptual schemes. Channel View Publications.
- 10.Karl, M. (2018) J Travel Res, 57(1), 129–146.
- 11.Uysal, M. et al. (2016) Tour Manag, 53, 244–261.
- 12.Vada, S. et al. (2020) Tour Manag Perspect, 33, 100631.
- 13.Lashley, C. (2000) Int J Hosp Manag, 19, 3–15.
- 14.Lugosi, P. (2021) Tour Stud, 21(1), 24–35.
- *COI:本記事に関連して開示すべき利益相反はない。
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