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【小特集】

カスハラの抑止と対策に効くとすれば…

竹田 伸也
鳥取大学大学院医学系研究科臨床心理学講座 教授

竹田 伸也(たけだ しんや)

Profile─竹田 伸也
鳥取大学大学院医学系研究科医学専攻博士課程修了。博士(医学)。専門は臨床心理学。単著に『対人援助職に効く 人と折り合う流儀』(中央法規出版),『一人で学べる 認知療法・マインドフルネス・潜在的価値抽出法ワークブック』(遠見書房)など。

タテ社会とカスハラ

みなさんは,「カスハラ」という言葉をご存知ですか? 顧客からの過剰な要求や不当な苦情を意味する「カスタマーハラスメント」の略語だそうです。私は今回の寄稿依頼を機に初めて知りました。この程度の理解しかない私が,今回の小特集で論を述べるのは分不相応な気もします。しかし,だからこそ表せることもあるかと思い,言葉を綴ってみました。

近年,ハラスメント防止に関する研修や論考を見聞きする機会が増えたように思います。そうした学びの機会に触れるにつれ,襟を正す一方,違和感を抱くこともあります。まずは,その違和感をたどりながら,カスハラを基礎づけるものは何かを考えてみたいと思います。

客であるという言い訳は,スタッフの人権を無視してひどいことを言ってよい理由となりません。なのに,なぜ私たちの自己主張は,こんなにひどいことが言えるような攻撃性を帯びたり,反対に忖度して言いたいことが言えなくなったりしてしまうのでしょう。その理由の一つは,上下関係を明確にしてそれに依存するというタテ社会こそが,私たち日本人にとって他者との関係性を基礎づける論理であるとする中根[1]の指摘から推論できます。それは,今の状況で目の前にいる相手と自分のどちらが上かを判断し,そこから導き出した力関係が主張の仕方を歪めてしまうということです。ここから考えると,店員に対して乱暴な言動を行う客は,その状況で「店員である相手より,客である自分が上」という力関係を内面化したために,そんなことができるのではないでしょうか。こうした態度は,「お客様は神様です」というフレーズに代表されるように,顧客を「お客様」と呼称することで高め,サービスを提供する側を謙譲的に下げる私たち日本人の社会意識とも符合します。そして,中根の指摘にあるように,力関係によって他人とかかわろうとする心性が私たち日本人に備わっているとすれば,顧客としてスタッフに過剰な要求や不当な苦情を行うカスハラは,私たち誰もがしてしまう立場にあると言えるでしょう。

そう考えたときに,ハラスメント防止研修に伏流する違和感に思い当たることがあるのです。圧倒的な情報を背景に,伝え手は「これを聞いているあなたは気をつけてください」という調子で言葉を届けてくる。そのとき,すでに伝え手と聞き手の間に上下関係が成立しています。その延長線上にハラスメントがあることを考えると,そうした上下関係に規定されたハラスメント防止研修は,ウロボロスのように自らのコンテンツによって自らを食い破っていることになります。そこに,私は違和感を覚えたのだと思います。ですが,ハラスメント防止研修にかかわる私の抱く違和感はそれだけでもなさそうなのです。

特殊性と普遍性

人の行動を理解する視点に,「特殊性」と「普遍性」という二つの枠組みがあります。特殊性とは,その人固有の事情に注目する視点です。一方,普遍性とはどのような人にも共通してみられる特徴として,人の行為を理解する視点です[2]。コロナ禍では,感染者や医療従事者に対する心ない差別や偏見が後を絶ちませんでした。そうしたニュースを見聞きして,「なんてひどいことをするんだ」と義憤に駆られた人もいるでしょう。私もそうでした。しかし,当初は私も感染を恐れ,当時感染者の少なかった鳥取県に県外者がいたりしたら,「こんなときに来なくても」と思ったのです。これは,明らかに差別であり偏見です。差別や偏見をした人に対して「ひどい人もいるもんだ」と特殊性の視点から捉えても,差別や偏見はなくなりません。なぜなら,差別や偏見には,私たち誰もがそうした行為に及ぶ普遍性が備わっているからです。

特殊性と普遍性がどのようなものかおわかりいただいたところで,話を本題に戻します。出典を忘れてしまったのですが,ハンセン病患者が隔離されていた海外のある島に,神父が布教活動に訪れたときの話です。当初,島民は神父の言葉にまったく耳を貸さなかったそうです。ところが,神父がハンセン病に感染してから,島民は神父の話を真剣に聞くようになったというのです。感染前後での神父の変化。それは,感染前は「あなた方ハンセン病者は」という言葉で島民に語りかけていたのに対し,感染してからは「私たちハンセン病者は」という言葉に変わったことでした。感染前の神父の言葉は特殊性から,感染後の言葉は普遍性から,それぞれ島民に届けられていることがうかがえます。

冒頭で述べたハラスメント防止研修などに触れて抱く違和感のもう一つの正体。それは,伝え手も加害者となり得る普遍性がハラスメントに備わっているにもかかわらず,言葉の運び方が「あなた方は気をつけてくださいね」という特殊性を前提としていることにあるのではないかと思うのです。島民に対する神父の言葉がそうであったように,そのような立ち位置からハラスメント防止を訴えても,聞き手に届かないのではないでしょうか。少なくとも,「自分の立場が危うくなるといけないから気をつけよう」というレベルでの注意を促すことはできても,自他尊重の心に基礎づけられた成熟を後押しすることは難しいと思うのです。糾弾されないためにハラスメントに及ばないようにするのは,成熟ではありません。ただの抑圧です。

不都合で受け入れがたいことですが,過剰な要求や不当な苦情をする客は「私」でもあります。そう考えると,カスハラを社会で抑止するためにできることは,自分もそれをしてしまう存在であるという普遍性を理解したうえで,では自分は顧客という立場のとき,世界とどう向き合えばよいかを自分自身の課題として引き受けることなのだろうと思います。

「助けて」と言える職場を目指して

では,スタッフの立場で実際にかなり難しい状況に対処せざるを得なくなった場合,どのような対策があるのでしょう。ネットを検索してみると,具体的な対策がいくつも挙げられています。中でも興味を引かれたのは,どのサイトでも強調されている「カスハラには一人で対応しない」というアドバイスです。どんなに配慮を重ねても,カスハラは起こり得る。だとしたら,起こったときに傷口を広げない対策として,この指摘はとても大切だと思ったのです。ただし,このアドバイスが機能するには,ある条件を前提としなければなりません。一人で対応しないためには,こうした事案があったときに,周囲に「助けて」と言える環境が整っているということです。

翻って,私たちの社会は「助けて」と言うことがとても難しくはないでしょうか。わが国は,接客業にかかわらず多くの業種で経営が厳しくなり,人材不足も重なって,世の中からますます余裕がなくなっています。米国のシンクタンクであるPew Research Centerが実施した国際調査では,「自立できない最も貧しい人たちの面倒をみるのは国の責任である」という考えに,47か国中大半の国々で80%以上の人が賛成を示したのに対し,日本でそれに賛成した人は59%にとどまり最下位でした[3]。この調査から,日本では「自己責任論」が幅を利かせていることが垣間見えます。世の中から余裕がなくなり自己責任論が幅を利かすと,「何かあっても自分は無関係でいたい」という欲求が駆動しやすくなります。職場を御輿にたとえると,担ぎ手は一定数いるのに,実際に担ぐ人がどんどん離脱するような状況です。そんなことが続くと,いずれ重さに耐えきれず御輿は崩れてしまう。それと同じように,「何かあっても自分は無関係でいたい」という気持ちから力を届けようとしないでいると,結局その何か(トラブルや困難)が起きてしまうリスクを自ら高めてしまいます。こうした職場環境で苛烈なカスハラが起こったときのことを想像してみてください。無関係でいようとするスタッフが多ければ多いほど,自分が客の苛烈な言動に対応せざるを得なくなったとき,それを一人で背負うことになります。

一方,「自分もいつそうしたことが起こるかわからない」と普遍性で眺めると,できる範囲で力を届けようという行為が起動します。そう考えると,カスハラへの重要な対策は,助けてほしいときに安心して「助けて」と言うことができ,サポートを必要とする人がいればできる範囲で力を届けようという態度に基礎づけられた「居心地よい職場」を育て上げることだと言えるかもしれません。

  • 1.中根千枝(1967)タテ社会の人間関係:単一社会の理論.講談社
  • 2.竹田伸也(2023)対人援助職に効く 人と折り合う流儀:職場での上手な人間関係の築き方.中央法規出版
  • 3.Pew Research Center (2007) World publics welcome global trade-but not immigration: 47-nation Pew global attitudes survey. Pew Research Center.
  • *COI:本稿に関連して開示すべき利益相反はありません。

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