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【小特集】
心理学-神学-心理学─場当たりでも場違いでもなく
打田 篤彦(うちだ あつひこ)
Profile─打田 篤彦
2015年,同志社大学神学部卒業。2017年,修士(人間・環境学,京都大学),2019年,M.A. in Global and International Citizenship Education(University of York),2023年,博士(人間・環境学,京都大学)。2023年より現職。専門は社会心理学,計算社会科学。
序:なんとなく,異邦人
4月のある日のゼミで,感慨深いことがありました。学部生の方が卒業研究に向けたいまの関心に「寺社などの宗教施設が地域共同体で果たす役割の変化」を挙げていたのです。このゼミでは専門分野として社会心理学を目下標榜していますが,筆者の勤務先は教育学部に由来する学際的な部局なので,どこか「多文化共生社会」の移民のようでもあります。
同じ頃,千葉県某所で自然環境の活用,つまりグリーンインフラの視察に参加しました。筆者以外はプロジェクトの責任者を含め他機関の生態学や土木工学の専門家の方々でした。その懇親会で話を振られ,筆者は異分野での「世界観」につい挑戦的に言及してしまいました。
『生物多様性』や『生態系保全』が絶対善とされているように思えることが以前からありました。『好き』と『大事』が混ざって確証バイアスが働くといいますか。私は『そもそも』を問いがちな社会科学の村から来た素人なので,すみません」
この手の疑義をあけすけに投げかけられた専門家はなんと答えたものでしょうか。筆者は「プロジェクトの中で勉強させてください」と取り繕ってはみました。果たして,研究対象のスケールが大きい生態学者の先生方の懐は深く,答えはこうでした。
「いや,それでいいと思います。私も若い頃からずっと違和感を拭えませんでした。でも,グリーンインフラという活用の切り口でやっと納得して研究できるようになりました」
こんな様子で,なんとなく「異邦人」ながら,ありがたいことに差し当たっては居場所をいただけているのが筆者の現状です。
行きて帰りし心理学
筆者は心理学への「Uターン移住者」です。バブル景気の終焉と共に生まれ,米国発の世界金融危機が高校生時代に起き,大学受験の際は当時の漫画の流行もあって「遠からず日本経済が破綻しても生き残りそうな農学を専攻しよう」と考えていました。が,理系クラスだったものの「倫理」の科目に最も惹かれ,人と社会を対象としつつ理数系の方法論も用いる心理学部へ進学しました。
伝統ある心理学部の先生方は親身で,学友たちは多様ながら学校生活を要領よく充実させてきた方が多そうでした。しかし,最も大きな出会いは選択必修の宗教学でした。いかに宗教現象が人類の社会や個人に影響し,また人々に構築されてきたかという議論が,当時の筆者には新たな展望台となりました。他方,心理学の教育課程はよく確立されていたがゆえに,1年目の終わり頃の筆者はむしろ自学の見通しを立てやすく感じていました。同じ大学にあって,牧師養成だけでなく広く宗教現象について学べるという神学部へ移ることを考えたのはそんな折です。
神学部は日本では稀ですが,歴史的には大学の起源にあたり,欧米の伝統的な総合大学(例:オックス・ブリッジ,ハーバード)にも現存します。ヴィルヘルム・ヴントが心理学史の1頁目を刻んだライプツィヒ大学もその一つで,神学部は1409年の開学以来の歴史を持ち,旧東独時代の改称時はなんと「カール・マルクス大学神学部」だったそうです。当時の同大学で,体制にも曲げようがないとして物理学を専攻した牧師の娘がのちのアンゲラ・メルケル首相/キリスト教民主同盟党首であることを思うと,神学(部)はある意味で物理学と同様に社会主義体制にも不屈だったのかもしれません。
さて,ここから筆者のいまに続くなんとなく異邦人な処世が始まりました。心理学の専門科目と履修可能な神学部の科目を受けて2年次を過ごしたのち,神学部へ移籍しました。教育課程は独特で,初年次の入門科目を除き,卒業研究を含むほとんどの専門科目が選択必修でした。学友たちの関心,知識,そして経験はやはり他学部にない個性を持っていましたが,筆者の心理学部での学びもまた独自性を与えてくれました。
心理学の概論的な教科書では,一般的にヴント以前はごく短く圧縮されているかと思います。神学部だと,たとえばカトリック教会での告解や従軍聖職者の長い歴史を辿り,臨床心理のカウンセリングを宗教の機能の置換,または世俗化現象として論じ,さらにプロテスタントの牧会という宗教行為への逆輸入の仕方が検討されます。そして,インドネシアのイスラームでは,日本の真宗ではどうかと議論が展開します。広い視野で世界観を相対化し,諸現象の位置づけを再定義するわけです。これが,筆者にとって最も強く残った神学部での学びの一つと感じています。
こんなふうに宗教現象の社会での機能を論じることに関心を寄せた筆者ですが,大学院進学を本格的に検討し始め,方法論とパラダイムを広げる必要性に思い至りました。そして想起したのが,「心理学の研究法は結構潰しが効く」という心理学部の先生のお言葉でした(そして「研究で職を得るのは芸人を目指すようなもの」とも)。そうして振り向いた心理学は,後発ゆえに柔軟ないいとこ取りができる分野,世界観に映りました。
神学部の先生方の真摯なご助言も受けつつ進学先を探すうちに,近隣の他大学にある社会/文化心理学の研究室と巡り合いました。ここなら自分の関心に沿った訓練をさせてもらえそうと得心し,修士課程に進みました。神学部での2年間を経て,心理学の特定の分野に戻る,ないし引き戻されることになりました。
「研究者として浮気性では?」
心理学へ回帰してからは,コウモリのようですが打って変わって「神学部出身」が個性の一つとなりました。のちの就職の面接でも,良くも悪くも必ず関心を持たれる事項です。Researchmapの検索では,神学部/研究科を経て心理学の学会に所属しているのは筆者含め2名だったので,無理もないかもしれません。
とはいえ,Uターンで得た感覚と発想は,特に異分野との共同研究で重宝します。筆者は足元も覚束ない駆け出しながら,生態学,経済学あるいは歴史学などの方々とご縁があり,都度に心理学を相対化することになります。「互いの専門分野でそもそもなぜその問いを立てるのか」から共通の基盤へ至る創造的な過程で,神学部での訓練が視野を広げてくれるようです(実際は己が浅慮と相手方の卓見を知る過程ですが)。
他方,筆者の来歴と同様に研究活動は散らかり,懲りずに新しいことを勉強し続ける羽目になるので,手脚を動かすほどにはなかなか先へ進めずにもいます。ある面接の場では「研究者として浮気性では?」と同じ分野の先生から切り込まれ,「それが弱みでも強みでもあり,今後もきっとそうです」と開き直るほかありませんでした。しかし,続けて「あなたの研究の軸は?」とも問われ,これには「人・社会・物理環境の相互作用の中で適応を考える」という大学院の研究室で出会った世界観の解釈を堂々と答えられました。
結:ニッチへの流浪
図1は筆者の素朴な研究主題観です。頭に去来する研究主題が気の利いたものであれば,たいていはもう誰かがやっている─というのは浅はかなヒューリスティックかもしれませんが,まだやられていないからには理由がありそうです。我ながら悲観的とは思いますが,その多くは研究者または社会にとって「どうでもいい」か,研究者にとって「難しい」からかもしれません。その中でも,異分野どうしの知見と技能を持ち寄ることで前進することも少なくないのではないか,というのが筆者の淡い希望です。
そんな思いで,いまの主な研究主題である社会関係資本の構築を,研究活動においても大切にしています。これは,大学院の恩師から授かった最も大きな道標の一つです。
アウトリーチの範疇かもしれませんが,元同僚で同世代の生物学者の方々と研究費を得て,院生生活を疑似体験するシリアスゲームを制作してもいます。筆者みたく「定型進学」していない人の進路選択とその準備を支援することも目的の一つです。
そんな行動に出る程度には苦悩しているわけですが,差し当たっては宗教学での決まり文句を胸にニッチへの流浪を続けることになりそうです。
「一つの宗教しか知らない者は,一つの宗教も知らない」
- *COI:本稿に関連して開示すべき利益相反はない。
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