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【特集】
やさしく伝えることの難しさ─科学コミュニケーションと心理学

佐倉 統(さくら おさむ)
Profile─佐倉 統
1960年東京生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。博士(理学)。専門は科学技術社会論。三菱化成生命科学研究所,横浜国立大学経営学部,フライブルク大学情報社会研究所,東京大学大学院情報学環を経て,現職。人類進化の観点から人間の科学技術を定位するのが根本の興味。著書に『科学とはなにか』(単著,講談社),『おはようからおやすみまでの科学』(共著,筑摩書房)など多数。
はじめに─あるいは「もっとわかりやすく書いてください」の悲劇
私が一般誌の編集委員を務めた時の経験談である。専門家に解説記事を依頼することが多いのだが(本誌もそうだと思う),ときどき,ものすごく専門的な内容の原稿が出されてきて,「もう少しわかりやすく書き直してください」と注文を付けて修正してもらうことがある(本誌の事情は存じ上げません)。だが,そうやって修正されてきた次の原稿は,残念ながら,まず間違いなく,最初のものより難しく,かつ読みにくくなっている。編集部や編集委員会のメンバーが,うわっ,どうしよう,これ?という顔つきになるのだが,良い対策は見つからない。
これは書き手の責任ではなく,そのような指示を出した側の責任である。どうすれば「やさしく書く」ことになるのか,書き手が理解できていないから,それだけ言われても,どこをどう直したらいいのかわからない。無理矢理修正して,かえっておかしなことになる。
執筆者の専門家は,忙しい中,時間を割いて,一生懸命書いてくれた。知識も豊富,見識も高い方たちだ。なのに,なぜ,そうなってしまうのか? なぜ,専門家は素人にもわかりやすく書くことが難しいのか? 本稿では,この問題について,心理学との関係を視野に入れつつ,概要と私見を述べる。
一般誌で研究成果を専門家以外にわかりやすく書く作業は,科学コミュニケーションの一部と言える。用語についてここでは厳密な定義にはこだわらず,科学技術の専門家が専門家でない人たちにコミュニケーションする状況を,広く「科学コミュニケーション」とする。なので,本稿の目的は,科学コミュニケーションについて心理学との関係を視野に入れつつ概要と私見を述べる,ということになる。
それではまず,科学コミュニケーションの外堀から埋めていこう。
リスクコミュニケーションから考える
科学コミュニケーションは,難しい活動だ。専門家が同じ分野の専門家たちに情報を伝える方が,はるかに簡単である。この難しさを,科学コミュニケーションに従事する(従事させられる,と言った方が正確かもしれない)専門家は,時として,「聞き手が専門的知識を持っていないから」と考えがちである。そういう場面もないわけではないが,ほとんどの場合,この考え(「知識の欠如モデル」と呼ばれる)は,間違っている。問題は,そこではない。
私は,科学コミュニケーションの難しさは,話し手と聞き手が異なる知的空間に属していることにある,と思っている。聞き手が知りたい情報は,ある科学知識についての専門的な意義や詳細ではなく,より大きな,あるいは直観的な,「物語」のようなものが求められていることが多い。専門家と一般人とでは,知識の粒度だけでなく,知識の性質も異なるのである。
具体例で考えてみよう。論点を明確にするために,リスクコミュニケーションを例に挙げる。リスクコミュニケーションは,潜在的なリスクあるいは実際に起きた事故などについて,関係者に危険度を周知し,より合理的な対応を依頼する際のコミュニケーションである。科学的知識を伝えることが主目標である平常時の科学コミュニケーションとは場面が異なるが,情報の送り手と受け手の間に認識枠組みが共有されていない状況において,情報を共有する必要があるという点では同じ構造をもつ[1]。この,送り手と受け手の間の非対称性は,リスクコミュニケーションの方が顕著であるため,問題の所在がわかりやすいと考える。
リスクコミュニケーションにおける情報の送り手と受け手の非対称性は,リスク認知の食い違いとなって表れる。科学的に測定された危険度と,一般人が心理的に受け取る危険度との間には,ギャップがあることが知られている[2, 3]。いろいろな要因が関係しているが,明確なのは,未知のリスクと既知のリスクの差である。日頃接していてなじみのあるリスクは小さく認知されるのに対して,なじみのない現象はリスクが大きく認知される。
2011年の福島第一原発事故の際に,原発から放出された放射性物質による健康リスクより,喫煙のリスクの方が大きい,という説明が専門家からされたことがあった。ガンなどによる死亡リスクとしてはその通りなのだが,この説明はかえって聞き手からの反発をよんだ。喫煙は自分から進んで嗜むものであり,それに対して原発事故は望んだわけでもないのに放射性物質を撒き散らされて,住民の生活が破壊された。性質が大きく異なる2つのリスクを同列に比較すること自体,許しがたい,という感情による反発であり,それは当然の反応だと思う。
この認識の齟齬は,リスク認知に影響するもうひとつの要因とも関係している。リスク源に対して自分がコントロールできる度合いの大小である。タバコは自分でコントロールすることができる。何度も禁煙しては続かずに繰り返しているとしても,少なくとも,禁煙を再度試みることは自分自身の心持ちひとつで可能である。それに対して原発事故は,自分の裁量はほとんどゼロである。完璧な「もらい事故」だ。このようなリスクは大きく認知される。同様の要因が影響している例として,飛行機事故と自転車事故がある。前者のリスクは後者よりはるかに小さいが,自分でコントロールできる度合いの大きい自転車の方が,心理的にはリスクは小さく感じられる。
以上,本稿で注目したいリスクコミュニケーションの際の注意点は,①情報の送り手と受け手の間に情報の評価基準の差異があること,②その差異を踏まえて送り手と受け手の間に共通の了解事項を現出させるのが重要であること─の2点である。この2点が,程度の差はあれ科学コミュニケーションにおいても重要であるというのが次節のトピックである。
専門家と非専門家は「世界」を共有していない
科学コミュニケーションの必要性が強調される背景には,科学の専門家と一般人を含む非専門家との間の距離や齟齬が大きくなっている現状がある。科学技術の知識や成果は,たとえばエネルギーや情報などの各種インフラのように社会を維持するために不可欠なものもあるし,感染症対策など個人の生活の安全を守るために必要なものも多い。科学技術と社会の距離が広がることは,科学技術の専門家集団にとって社会からの理解が得られないというデメリットがあるだけでなく,社会そのものにとっても望ましい状態ではない。
このような状態になる原因はいろいろあるが,根本的な要因のひとつは科学的な知識と日常生活での知識とが,性質が大きく異なることであると私は思っている[4]。科学(自然科学)は,自然現象についての新しい知識を生産する活動であり,その知識は仮説を実験や観察によって確認する実証主義的な手続きによって生産される。自然科学のこのような手法は,18世紀から19世紀にかけて徐々に整備され,確立してきた。これは,自然科学が母体である哲学から分かれて独立する過程でもある。
私たちが日常生活で使う知識の多くは,もっと直観的で主観的だ。水平線に沈む夕陽を見て美しいと感動するとき,誰もが夕陽が「沈む」と認識している。日常生活の一場面としては,その認識で間違ってはいないし,生活の実感にはむしろ合っている。科学的な知識(「私たちのいる場所が地球の自転によって太陽の光を受けない側に入りつつある」)よりも,直観的な世界像としては理解しやすく,適切であると言った方がよい。私たちの日常生活においては,科学ではなく素朴な自然観にもとづいた知識(天動説など)の方が,理解しやすく共有しやすい。すなわち,「より優れた」知識体系であると言ってよい。
つまり,科学コミュニケーションが必要なのは,専門家と非専門家の間に知識量の差という量的なギャップがあるからではなく,科学的な知識(科学知)と日常生活場面での知識(生活知)が質的に異なっているからだと考えた方が,生産的である。
ドイツの現象学者,エドムント・フッサール(Edmund Husserl)は,19世紀から20世紀初頭にかけて物理学や科学的心理学が発展したことを踏まえて,科学知が日常生活から乖離してしまい,科学知によって生活世界(独:Lebenswelt,英:lifeworld, life-world)が語られてしまうことの危険性を指摘した[5]。フッサールの問題意識は,約90年後の今も有効である。というより,科学技術がさらに発展して,ヒトゲノム研究や脳神経科学によって「人間」そのものについての自然科学的研究がさらに威力を増している現在でこそ,より意義があると言える。フッサールを踏まえて,科学コミュニケーションとは,科学知の世界と生活世界との間で,知識情報の翻訳をおこなうことと言ってもよい。
もちろんこれは,人間についての科学的研究を否定することではない。私の意見はむしろ逆である。遺伝学,生命学,脳神経科学,さらには人工知能(AI)やロボットの研究も含めて,人間に対する総合的な理解がさらに深まることを大いに期待している。ただ,その際に,その理解は科学技術だけで達成できるものではないということも,強調しておきたい。科学技術が発展すればするほど,哲学や歴史などについての人文学的素養と,日常生活のあり方を含む生活世界への理解が,ますます重要になってくる。そして,科学技術とこれらの間を橋渡しするのも科学コミュニケーションである。
「正確な情報」とは,一意に決まるものではない。あるコミュニケーションにおいて適切な正確さは,その場に参加している参加者たちの目的や文脈や状況などに応じて,変わるものである。聴衆が専門家でない場で専門的に厳密な正確さを追求することは,コミュニケーションのあり方として間違っているし,その場に相応しい「正確さ」を体現するものでもない。その特定の場面,文脈,状況に応じて最適な「正確さ」をまとったコミュニケーションを実現することが,科学コミュニケーションでは求められている。
このような,場面に応じた「正確さ」が必要であることを認識し,的確に使い分けていた研究者に,ニコ・ティンバーゲン(Niko Tinbergen)がいる。現代動物行動学の元祖のひとりであり,その優れた業績で1973年にノーベル賞を受賞したほどの研究者であるが,彼は一般向けの著作を書くことにも大きな意欲と情熱をもっていた[6]。彼が生涯に著わした16冊の著書・編書のうち,5冊が一般向け科学書,6冊は科学に限らずさらに一般向けの内容で,そのうち2冊は絵本である。また,336編の論文・記事のうち約3分の2が一般向けであり,その多くは彼の母語のオランダ語で書かれている。彼の優れた伝記を書いたハンス・クルークによると,ティンバーゲンは一般向けに書くことを専門的な学術論文よりむしろ重視していたほどで,「一般読者向けに書く時はよりわかりやすい用語を使う必要があり,それは学者の発想が一般常識に基づいていてはじめて可能になる」(文献6, p.105)と考えていた。ティンバーゲンは,専門的な知と日常生活の発想が混じり合う領域が科学コミュニケーションであると認識していた。そしてその領域で活動することは,日常生活の言語感覚や発想から遊離しないために,専門家にとっても不可欠であると確信していたのである。
心理学と科学コミュニケーション
このように,科学コミュニケーションを2つの異なる規範の間でのコミュニケーションと考えると,心理学の中でも臨床に近いところで仕事をされている方々は,日々このようなコミュニケーションを実践されているのではないかと思う。
であれば,次に考えたいのは,科学コミュニケーション領域から心理学に,なにか生産的な示唆ができないか,同時に,心理学から科学コミュニケーションが何か示唆を得ることはできないか,である。
以前,理学療法士の三好春樹氏と対談をしたことがある。その際,彼が自身の経験にもとづいて,科学的医学の知見が膨大に蓄積されているにもかかわらず,介護の現場ではそれが十分に活用されておらず,被介護者はもちろん,医学者と介護者にとってももったいないことになっている,と指摘してくれた。
今ある膨大な医学や科学の知識を,一人の幸せのために使うことができているのかということなんです。科学技術の進歩ってすごいですよね。どんどん新しいことがわかってくる。それはそれでいいんだけど,これまでに蓄積されてきた知識を再構成して,ちゃんと使えるようにしようよと。(文献7, p.197)
このような再構成をするためには,介護の現場の特定の場面でどのような科学的知識が有効かを,熟知している必要がある。現場の状況と関連する科学的知識の,両方に精通していなければならない。これはなかなかハードルが高い。
そうすると,有効な科学コミュニケーション,すなわち知識の適切な再構成は,結局は個人の力量に依存するものなのだろうか? そして,個別の場面や文脈ごとに,それに適合する科学的知識を引っ張り出してきて当てはめる,経験値の集積のようなものになるのだろうか?
科学コミュニケーションが,そういった属人的特性や個別性を完全に払拭することは,とうていできないだろう。個別の事例の豊穣さと,理論化した切れ味は,二律背反でもある。科学コミュニケーションのような領域で過度に一般化を進めると,「相手の言うことをよく聞き,お互いに価値観を尊重しましょう」というような,なんの役にも立たないお題目ばかりになってしまう。
だが,適切な理論的整理をすることで,もう少し焦点を絞って,コミュニケーションの実践にも研究にも寄与できる,中程度の一般化は可能なはずである。そして,その一般化や理論化こそ,心理学と科学コミュニケーションの重なり合う領域から可能なのではないかと思う。
本稿執筆時の少し前(2025年9月)に南海トラフ大地震への警戒の文言が,今後30年以内での発生確率「およそ80%」から「60~90%程度以上」に変更され,同時に,異なる推定方法にもとづく「20~50%」も併記された[8]。2つの異なる推定法による推測値を併記したことの是非は,今はおいておく。問題は前者の「60~90%程度以上」という表現である。これは,日本語としては何を意味しているのか,ほとんど理解不能だ。なぜ「以上」が必要だったのか。この文言は,「すべり量依存BPTモデル」によって推定したときの,今後30年以内に南海トラフ大地震が発生する確率の分布(事後分布)に基づく70%信用区間などを考慮して表現したものである[8]。確率分布を日常言語でできるだけ正確に表現しようとして,隘路にはまってしまったという印象を受ける。
もともと確率分布は日常言語で表現しにくいし,背景知識がないと正確な理解が難しい。そのような対象であるにもかかわらず「以上」という「多いか少ないか」の二値に縮約される単語を追加したことで,混乱が増幅される表現となってしまった。統計や確率による表現は,科学知の性質の根幹であるが,それを日常言語で「正確に」表現するのは非常に困難なことである。しかし,正確さの完全性を多少欠くとしても,成し遂げることはできないだろうか。
生起確率やその頻度分布について,日常言語の単語はどのような頻度のイメージを惹起するのか。これは,言語確率 (linguistic probability)研究と称される分野である[9]。行動経済学や言語認知科学,計量行動学などと関連しつつ研究がおこなわれているが,科学情報の認知や理解と結びつけたものは,あまり多くないようだ。おもしろい現象がたくさんありそうではないか。どなたかトライしてみる人はいませんか? 私が見つけられていないだけかもしれないので,ご存じのかたはぜひご教示ください。
文献
- 1.若林里咲・佐倉統 (2023) 科学技術コミュニケーション, 32, 1-16.
- 2.中谷内一也 (2021) リスク心理学.筑摩書房
- 3.吉川肇子 (2023) リスクを考える.筑摩書房
- 4.佐倉統 (2021) 科学とはなにか.講談社
- 5.フッサール, E./細谷恒夫・木田元訳 (1995) ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学.中央公論社
- 6.Kruuk, H. (2003) Niko’s nature: A life of Niko Tinbergen and his science of animal behaviour. Oxford University Press.
- 7.佐倉統・三好春樹 (2011) 所収:佐倉統編, 科学の横道.中央公論新社
- 8.地震調査研究推進本部地震調査委員会 (2025) 南海トラフの地震活動の長期評価(第二版一部改訂)について, https://www.jishin.go.jp/main/chousa/kaikou_pdf/nankai_3.pdf
- 9.Bod, R. et al., Eds. (2003) Probabilistic linguistics. MIT Press.
- *COI:本記事に関連して開示すべき利益相反はない。
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