巻頭言
放射線被曝の心理学研究の国際化を
利島保(としま たもつ)
私が広島大学リーディング大学院「放射線災害復興を推進するフェニックスリーダー育成プログラム」の特任教授だった時,我が国の被爆者を対象にした心理学研究が二つしかないことを知り非常に驚いたことがあった。その一つは,1952年『心理学研究』に掲載された久保良敏教授(故人)の「廣島被爆直後の人間行動の研究」で,もう一つは,1956年『広島醫学』に掲載された「原爆被爆者の心理学的調査」であり,これは広島大学心理学科が被爆者の知覚や記憶等を調べたものであった。
さらに,乳幼児の神経心理学的立場から被爆研究を調べたところ,原爆傷害調査委員会(ABCC:現放射線影響研究所)が行った胎内被曝児の小学校期の知能検査の研究が見つかった。この研究は,2017年6月に95歳で亡くなったテキサス大学名誉教授W. シュル博士が,終戦直後に被爆者を対象にして行った大規模な遺伝調査研究の一つである。この研究では,受胎後8〜15週齢で被曝した子どもの知能検査値が,10〜11歳時に著しく低く,この時期の胎児が放射線の影響を受け易いことを示していた。また,1979年のスリーマイル島原発事故の際,米政府が妊婦に原発から半径80km以上離れた場所に避難するよう指示した根拠は,この研究に基づいていることが,その後の調べで分かった。そこで,私は胎内被曝児のデータが今でもアメリカに存在していると確信した。将来,我が国の若い心理学者たちが,このデータの所在と胎内被曝児の発達障害の全容を解明してくれることを強く期待している。
また,1986年のチェルノブイリ原発事故による胎内被曝児の心身発達研究は,ソ連政府の厳しい情報統制により公表されなかったが,ソ連崩壊後,胎内被曝児の小学校時期の知的障害を認める研究が,次々と公表されるようになった。特に,この事故で飛散した放射性物質を含む風がノルウェーの山脈で降下し,その地域の胎内被曝児の小学校期に知的障害が現れたという事実は,原発事故による放射性物質が自国だけでなく近隣諸国の子どもの発達にも甚大な被害を及ぼすことを示している。
このような放射線被曝の研究は,種々のデータを長期的に調査しなければならず,個人研究では限界があるので,国際的な共同研究機関が必要となってくる。それ故に,唯一の被爆国である我が国は,放射線被曝の心理学研究の国際的な組織化を率先して呼びかける義務があると思っている。
Profile─利島保
1972年,広島大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。文学博士(広島大学)。広島大学教育学部助手,山口大学教育学部講師・助教授,広島大学教育学部助教授・教授,広島大学大学院教育学研究科教授,広島大学大学院医歯薬学研究科(医)特任教授,県立広島大学理事などを歴任。現在は学校法人広島女学院監事。専門は神経心理学。著書は『障害者のための小さなハイテク』(共著,福村出版),『心から脳を見る:神経心理学への誘い』(福村出版),『認知の神経心理学』(福村出版),『脳神経心理学』(編著,朝倉書店),『こころが育つ環境をつくる』(分担執筆,新曜社)など。
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