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心理学史の中の女性たち

サトウタツヤ
立命館大学総合心理学部教授。学校法人立命館・学園広報室長。日本心理学会教育研究委員会資料保存小委員会委員長。『APA Public Interest』というツイッターからの情報。マミー・クラークはアメリカでは心理学のみならず科学を切り開いた黒人女性の一人として尊敬を集めています。

サトウタツヤ

マミークラーク

マミークラーク

Clark, Mamie(1917-1983)
http://www.feministvoices.com/mamie-phipps-clark/

マミー・クラークは,黒人医師・フィップス(Phipps)の家に生まれ,アメリカ大恐慌の時代においてもかなり余裕があり幸せに暮らしていた。高校卒業後は奨学金が与えられHoward Universityに進学して数学を専攻した。ここで将来の夫になる心理学の院生,ケネス・クラークと出会ったこともあり,心理学に関心を移し修士課程に進んだ。修士論文 の テ ー マ はThe Developmentof Consciousness of Self in NegroPre-School Childrenで あ り, 黒人の子どもたちは極めて早くから自分たちの「黒さ」に気づいているという結論だった。

実は,マミーは大学を卒業してから大学院に入学(9月)するまでの夏の期間にCharles Houstonという人権活動で有名な弁護士の事務所で働く機会があった。時あたかも彼の事務所には,黒人の人権が分離政策によって損なわれているという訴訟が次々と持ち込まれている時期であった。「分離すれども平等」という時代のアメリカを変えようという胎動をマミーは肌で感じる機会を得たのである。

コロンビア大学の博士課程に進学したマミーは,幼児の精神能力についての発達心理学的研究を行いながら,ケネスと協力して白人・黒人の子どもたちのアイデンティティ形成の問題や好み(Preference;選好)の問題を研究し,その結果を1947年に公刊した。これは後に「黒人形・白人形テスト」して知られることになる。

アメリカでは,早くも1868年(明治元年)に,アメリカ合衆国憲法修正14条が発効しており,全ての者に対する「法律の平等な保護」が定められた。しかし,1896年のプレッシー判決によって,複数の人種のために分離した施設が「平等」である限り,修正第14条に違反しないということになっていた。これが「分離すれども平等」である。「学校が白人用と黒人用に分かれていても,学校という施設の品質が平等」であれば差別ではないというのである。

これに対して,アメリカの黒人とその弁護士たちは,分離は実質的に不平等な隔離であり,この隔離が心理的に黒人生徒を苦しめ傷つけていると主張した。そして裁判を起こし「分離すれども平等」は憲法違反であると争った。その途上でマミーとケネスの研究が注目を浴び,夫のケネスは裁判で証人に立つことになった。

「黒人形・白人形テスト」は黒人の子どもたち(6 〜 9歳)に白人の人形と黒人の人形を見せて,良い人形を教えて」「悪く見える人形を教えて」「自分と似ている人形を教えて」などと問いかけるものである。一連の実験においてマミーとケネスは,黒人の子どもたちでさえ,悪く見えるのは黒人の人形だとすることを劇的に示した。また,その後に自分に似ている人形を選ぶ時には,苦しさのあまり泣き出したり実験室から逃げ出したりする子どももいた。悪い人形として回答した黒人人形を自分に似ていると答えるのが苦しかったのであろう。しかし,ケネスによればもっとショックだったのは,むしろ,あきらめた表情で「悪い」黒人の人形を「自分と似ている」と答える子どもたちであった。その子どもたちは,社会の価値を内面化していたのであるから。

マミーたちの実験はいくつものバリエーションがあるが,黒人の子どもたちの尊厳が損なわれているということは示す結果は一貫していた(と解釈された)。彼女たちの研究はブラウン対教育委員会裁判に引用され,アメリカの公立学校の人種分離政策撤廃に影響を与えた。「分離すれども平等」は憲法違反であり撤廃されるべきだという結論に導いたのである。

アメリカ史上,最も重要な発達心理学の知見と言えるという評価もある(ブルームによる)。

http://www.naacpldf.org/brown-at-60-the-doll-test

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