公益社団法人 日本心理学会

詳細検索

心理学ワールド 絞込み


号 ~

執筆・投稿の手びき 絞込み

MENU

刊行物

心理学史の中の女性たち

サトウタツヤ
立命館大学総合心理学部教授。学校法人立命館・学園広報室長。日本心理学会教育研究委員会資料保存小委員会委員長。カナダ→イギリス→ウガンダ→アメリカと移住したことが,エインスワースの思考を鍛え上げたのかもしれません。ちなみに,ボウルビーとエインスワースの年齢差はわずか6歳,ちょっと驚いた。

サトウタツヤ

メアリー・エインスワース

メアリー・エインスワース

Ainsworth, Mary Dinsmore Salter(1913-1999)
http://www.feministvoices.com/mary-ainsworth/

 
少女時代のメアリー(年代不詳)
少女時代のメアリー(年代不詳)

メアリー・エインスワースは,メアリー・サルターとしてアメリカに生まれた。5歳の時にカナダに移住した。家族は3人姉妹に対して教育を与えようとする雰囲気であった。

イギリスの心理学者マクデューガルの本を読んで心理学に関心をもったメアリーはトロント大学の博士課程でブラァツ(Blatz,William E.:1985-1964)に師事した。ブラァツはその時点において,子どもはその養育者に対して安全的な依存をして養育者を安全基地(secure base)として見なすことによって,見知らぬ外界(人や状況)と関係をもつことができるという「安全理論」を構築していた。メアリーはその影響を受け,質問紙調査によって大学生を対象にした調査で博士号を得た(タイトルは"An Evaluationof Adjustment Based on theConcept of Security")。取得後はカナダ軍女性部隊に所属して,最終的には大佐にまでなった。

その後メアリーは,結婚相手Leonard Ainsworthの学位取得のためにロンドンに移り住んだ。その時,軍隊時代の友から『TheTimes;Educational Supplement』に掲載されたタビストック・クリニックの研究助手募集広告を教えてもらいそれに応募し見事採用された。同クリニックは,力動的治療を専門とする医療施設であり,建物の前にはフロイト像が建立されている。

メアリーは児童精神分析部門で研究していた医師・ボウルビー(Bowlby, John:1907-1990)の研究助手を務め,子どもが幼少期に母親から離別した際のパーソナリティ発達に関する研究に従事した(1950)。この時期のボウルビーは世界保健機構(WHO)から依頼されたレポートを仕上げていた(モノグラフ『母性的養護と精神的健康』〔1951〕として結実した)。メアリーはボウルビーのもとで,早期の養育者不在状況が子どもたちを不幸にすることを理解し,その解決にも関心をもった。

ところが,メアリーの運命はさらに展開する。彼女は夫の転勤に同行しアフリカ・ウガンダで暮らすことになった(1954-1955)。ウガンダにおいてメアリーは,タビストックで身につけた自然観察のテクニックを用いて,28組の母子を対象に家庭状況における母子の振る舞いについての自然観察的な研究を行った。彼女はこの時,子どもの近接行動と探索行動に着目していた。ウガンダの子どもたちは周囲を探索する時に,どこに母親がいるかを常に気にかけながら探索していたのである。この研究成果は,ボウルビーの考え方を大いに触発することにもなった。

さらに1956年,メアリーはアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に移った。病院の臨床心理士として働き,最終的には教授になったものの,基本的に臨床的な立場の教員として活動し,パーソナリティ測定などを教えており,研究時間も取りにくい状況であった。そのような中で彼女は,ウガンダで行った観察と同じことをアメリカでも行ってみた。しかし,アメリカの子どもたちはウガンダの子どもたちとは違っていることに気づくことになった。

ウガンダで見られた,①探索行動中に母親を安全基地として使う,②母親との離別時の短い悲しみ,③見知らぬ人に会ったときに見せる恐れ,に関しての個人差が,アメリカでの日常生活ではあまり見られなかったのである。アメリカの子どもたちは,家(見知った状況)という環境では,母親を安全基地として使わずとも探索行動を行えていたのである。だからこそメアリーはアメリカの子どもたちの差を見いだすためには,見知らぬ場所に親子を連れてきて,その行動を見ることが重要だと考えたのであろう。そして「見知らぬ場所」という人工的な場面設定はその後,標準的な手続きとして整備され,新奇場面法と呼ばれることになり,さまざまな国で研究が行われたのである。

PDFをダウンロード

1