心理学史の中の女性たち
サトウタツヤ
立命館大学総合心理学部教授。学校法人立命館・学園広報室長。日本心理学会教育研究委員会資料保存小委員会委員長。心理学史にフォーカスしたこの連載,
20年続いてますが,2年に1度くらいテーマ設定を変えるようにしています。今回のテーマはこれで最終回。
女流棋士とか女性代議士のように,あえて性別をつけてある職業を呼ぶことを,有標化という語で表すことがあり,21世紀の今日では避けるべき表現だとされている。もちろん,女性心理学者という表現も有標化の一つである。
しかし,歴史を繙けば,学問をすることに対する性別による制限は決して小さくなかった。その制限を切り開く役割をしてきたのが心理学者たちだったということは特筆すべきことであるし,そうした努力をした人々について知ることは意義のあることである。
今回は,あるサイト(10 Women Who Changed Psychology)に取り上げられている心理学者たちを紹介することで,「女性心理学者」という表現がなくなる今に至るまでに様々な努力を惜しまなかった人について,一部ではあるが,理解を深めたい。まず,10人の心理学者の名前である。
- ① Mary Whiton Calkins
- ② Anna Freud
- ③ Mary Ainsworth
- ④ Leta Stetter Hollingworth
- ⑤ Karen Horney
- ⑥ Melanie Klein
- ⑦ Mamie Phipps Clark
- ⑧ Christine Ladd-Franklin
- ⑨ Margaret Floy Washburn
- ⑩ Eleanor Maccoby
これらの心理学者のうち,エインスワース,ホリングワース,クラークについては本連載で取り上げてきた。そして,フロイト(ジークムントの娘,アンナ),ホーナイ,クラインについては精神分析の文脈で知っている人も多いであろうから,ここでは,カルキンス,ラッドフランクリン,ウォッシュバーン,マコビーの四人について短く紹介したい。
メアリー・カルキンス
カルキンスは,アメリカのスミス・カレッジを卒業後,ウェルズリー・カレッジで教職(チューター)に就いた(このカレッジはヒラリー・クリントンが卒業したことで有名になった)。彼女が哲学や心理学を教えたところ高い評判を得,心理学を1年間学ぶ機会を与えられた。彼女はハーバード大学のジェームズの元で学ぶことになるが,その当時(1890)のハーバード大学は女性の入学を認めておらず,ジェームズ他,一部の理解ある教授陣に支援されることでやっと学ぶ機会のみを得ることができた。
1891年,カルキンスはウェルズリー・カレッジに復帰して心理学実験室を創設した。そして彼女は音を聞いて色を見る現象など,複数の感覚が同時に起きる現象に着目し,1892年に共感覚(Synaesthesia)という命名を考えた。ギリシャ語の「syn(σύν): 共に」,「aisthēsis(αἲσθησις): 感覚」を組み合わせたものである。
1905年,アメリカ心理学会における最初の女性会長となった。
クリスチーヌ・ラッドフランクリン
ラッドフランクリンは色覚の研究を行った。彼女は1882年にジョンズ・ホプキンス大学で博士論文を完成したにもかかわらず,女性だという理由で1926年まで学位が出されなかったことでも知られている。彼女はアメリカ心理学会の最初の女性会員(1892)であり,アメリカ光科学会でも最初の女性会員となった(1919)。
マーガレット・ウォッシュバーン
ウォッシュバーンはコーネル大学でティチナーに師事し,1984年に(心理学のみならずあらゆる学問において)アメリカ女性として初めてPh.D.(博士号)を得た人物である。研究テーマは動物認知であり,彼女の著書は『動物の心』として日本語訳も出版されている(1930)。ウォッシュバーンは1921年(アメリカ女性が参政権を獲得した翌年)に,二人目のアメリカ心理学会会長となった。その後,三人目の女性会長は1971年のクラークまで待たねばならなかった。また,彼女は1931年に全米科学アカデミー会長に就任した。女性としては二人目であった。
エレノア・マコビー
マコビーは,性差の研究で博士号をとり(1951),1970年代初頭,当時のクラーク会長のもとに設置された「心理学における女性の地位に関するタスクフォース」(APA女性委員会の前身組織)のメンバーとなって活躍した。
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