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ここでも活きてる心理学

博物館の現場から―比較認知科学を振り返って

奥州市牛の博物館 主任学芸員

森本 陽(もりもと よう)

Profile─森本 陽
2005年,大阪市立大学理学部卒業。2010年,京都大学大学院文学研究科行動文化学専攻心理学専修博士課程単位取得退学。文学博士。同年に奥州市教育委員会歴史遺産課学芸員,2014年より現職。

牛の博物館の展示室にて 黒毛和種「清菊」の剥製と
牛の博物館の展示室にて 黒毛和種「清菊」の剥製と

私は「奥州市牛の博物館」の学芸員として働いています。牛の博物館では,世界から集めた1000点以上の資料を展示し,胃袋や骨格標本から牛の体のしくみを,農耕や乳利用の道具から牛と人とのかかわりの歴史を紹介しています。

遠足や社会科見学で博物館を訪れた地元の子ども達は,展示室入口の黒毛和種の剥製を見上げ,その大きさに圧倒されます。「清菊」という名のその牛は,オスの牛であること,こんなに大きいのに,子ども達より若い2歳半(30ヵ月齢)であること,地元前沢の農家で大切に育てられたことを紹介します。そして,彼ら肥育牛は,人によって殺され,その肉は牛肉となり,我々が食べていることを伝えます。小学校低学年ぐらいまでの子どもは,その事実に「えっ?」「死んじゃうの?」と驚いた様子を見せます。牛に対する「かわいそう」と毎日の「いただきます」がつながる瞬間。その時の心の動揺を大切にしたいと思っています。

牛は,現代人が最も依存している家畜動物であると言っても過言ではありません。肉,乳製品,革製品,医薬品など,日常生活のさまざまな製品がウシ由来の素材で作られており,相当な注意を払わない限り,これらを一切利用せずに生活することは困難です。それゆえに,子どもから年配の方まで,皆に身近な命の問題を提起するのに牛が適した素材であると考えます。人と動物の関係を自分ごととしてとらえる入口になるのです。

大学院生時代,比較認知科学の研究室に所属していた私は,フサオマキザルの情動認識を研究テーマにしていました。素朴な疑問として,ヒト以外の動物は怖れや喜びを感じているのだろうか?を知りたかったのですが,主観的な感情体験には科学では踏み込めません。そこで,フサオマキザルが仲間の情動表出をどの程度認識しているのか,仲間の怖れや喜びについての心的表象を持っているのか,という問いを立てて,主に行動実験を行っていました。その結果,フサオマキザルは仲間の表情に応じて,自身の行動を変化させることを明らかにできました。大学院での5年間は,動物と接して研究を行える喜びを感じると同時に,彼らの自由を科学のために犠牲にする葛藤を抱える毎日でもありました。

現在,私は牛の博物館の学芸員となり,さまざまなものを人に与え,社会を支えてきた牛を紹介することによって,人と動物の関係をさらに俯瞰視できるようになりました。産業動物である牛は,最終的には人によって命を奪われます。畜産の現場で働く生産者は,命の重さを受けとめながら,過剰な愛着は持たず,愛情を注いで仕事を全うしています。自身が実験動物の飼育に携わり,葛藤を抱えた経験は,生産者の牛への姿勢を理解する助けになりました。

アニマルウェルフェアが畜産現場に広がる中,動物が感受性を持つ主体であることが社会に受け入れられつつあります。人以外の動物も感情を持つ主体であることが自明のこととなり,「動物に心があるか」が問われなくなることが,人と動物のよい関係にとってひとつの通過点となると思います。

人と自然,人と動物の関係のあり方は社会が決めていくことです。それが形成される際に,一人ひとりが自分とつながっている命を意識できるよう,私達,牛の博物館の活動が微力ながらもその一助になれば,と願います。

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