この人をたずねて
板口典弘 氏(いたぐち よしひろ)
Profile─板口典弘 氏
2013年,早稲田大学文学研究科にて博士(文学)取得。早稲田大学心理学コース助手,AMED研究員,日本学術振興会特別研究員PDなどを経て2018年より現職。2021年4月から慶應義塾大学文学部。専門は認知神経心理学,実験心理学,計算論的運動制御。著書に講談社から『心理学入門』(共編著),『心理学レポート・論文の書き方』『心理学統計入門』(ともに共著)など。
板口先生へのインタビュー
─板口先生がこれまで取り組まれてきたご研究について教えてください。
心理学を背景に持っているのですが,運動が一つの大きなテーマです。昔からしている仕事は,「何かものをつかむとき,頭の中でどういう計算をしているか」ですね。最近だとVR機器を使ったり,力場を使って環境を変えたときに運動がどう変わるか,適応していくかを見ています。最終的には患者さんのリハビリに用いることを目標にしています。
ほかにも言語に関する研究も行っています。静岡大学の情報学部に移ったこともあり,自然言語処理や機械学習を使って,認知症や失語症の患者さんの発話からその人たちの意味構造も拾えないかと研究しています。
─把持運動やその軌跡の解析についての研究も多くやってらっしゃいますね。
2014年ごろから手でものをつかむ動作と,道具でものをつかむ動作の研究を行っています。欧米では,身体と道具は根本的に異なるものであるという考え方が主流で,道具の使用と手の使用に関わる計算も異なるものとされていました。一方で私は,脳にとっては身体も“道具”であると捉えており,道具使用と身体使用は同じものだと仮定して研究を進めています。手は生まれたときからくっついていてずっと使っているのだから上手く使えるのは当たり前です。だから,把持の運動制御には効果器の種類ではなく熟達度が重要だと考え到達把持運動を用いた実験を行ったところ,身体使用でも道具使用も同様の計算が行われており,二者は質的に異なるというよりも連続的に変化する性質のものであることが示唆されました。
身体や運動といえば,最近,認知処理に対して身体および身体とかかわる環境も大きく影響するという身体化認知というトピックが流行っていますが,身体と運動それぞれに対する理解が不十分なところが多いと私は考えています。例えば腕を下から上に動かすための運動計画だけでもすごく大変な処理が必要です。運動計画段階における座標変換や運動指令の生成と,運動開始後に得られる視覚や体性感覚フィードバックもきちんと切り分け整理しながら研究をしてほしいなと思います。
─空書の研究についても教えてください。
空書(くうしょ)は文字を思い出す際に,空中に指で文字を書く行動のことです。運動にかんする心理学の研究として,比較的有名な現象だと思います。2013年ごろ,ある大学で心理学演習を新たにスタートさせる際に,お金もかからず楽なので空書の実験を組み込んではどうかと提案しました。
しかし,事前に自分で実験したところ,どうにも効果が再現できず,とても困りました。交絡変数を一つずつ検討したところ,運動行為そのものに加えて,運動の視覚情報が空書効果を引き起こすために重要であることがわかりました。
─これからの研究について教えてください。
私は運動測定・制御の要素を心理学に持ち込むことで心理学をアップデートしたいと考えていますが,現状では知覚や認知の変化を含めた包括的な検討はできていません。今後の研究では,その辺りの問題にも取り組もうと考えています。
また,これは具体的な話ですが,VR技術を用いて身体と道具の関係を検討する面白いプロジェクトを進めています。通常,道具を使用する際には,作用点の位置が通常とは大きくずれることが特徴的です。さらに,例えばハサミのように,左側の刃を右側の指が制御するといったようなメカニカルな座標変換も生じます。
しかし,いままでの実験パラダイムだと,作用点の場所を完全に一致させたまま後者のタイプの座標変換のみを引き起こすことが難しかったんですね。VR環境を使用することにより,位置のずれをゼロにすることと,運動指令と仮想身体の間に座標変換を導入することが両立できます。これによって,運動制御と知覚・認知の双方の側面から,より直接的に身体と道具の関係を検討していこうと考えています。
─研究者にとって大切なことは何でしょうか。
人それぞれだとは思いますが,大切なことの一つは,哲学を持つことじゃないかなと思います。心理学の問題だけを考えるのではなくて,日常的な疑問や哲学者が考えていることから大きな問題を拾ってくることが大事です。その大きなアイデアを,いかに自分の研究に落とし込んでいくかが重要だと考えます。
─板口先生の場合は,どういう哲学があって手も道具の一つだと考えるようになったのですか?
人って何だろう,人の存在って何だろうという疑問がいつも一番にあります。そして,唯物論や二元論,脳と身体の関係についてもよく考えてます。そういうことを考えていると,道具と身体が違うというアイデアは全然納得ができなかったんです。脳が身体を制御しているならば,脳にとっての身体は道具以外の何物でもないし,実際その制御過程で座標変換も多く行われている。つまり,「ヒト=脳」と考えたときには,道具と身体はさほど変わりません。道具使用研究の文脈でそんなこと言う人は少ないので,それを軸に研究していこうと考えました。
もう一つ,患者さんの動きを実際に見る機会に恵まれたことも大きかった。脳損傷によってある種の疾患を抱えると,ある日突然,身体制御が不自由になります。“動く”んだけれど,今まで通り自由に動かすことが難しくなります。身体がまるで初めて使う道具のようになってしまうんです。身体が特別なものであるというアイデアは,あの動きを見たら消えてしまいます。脳損傷後のリハビリを,元の身体を取り戻すのではなくて,身体が道具に戻ってしまって,その新しい道具の使用法を獲得する過程だとみなすことができれば新たなリハビリも考えられるんじゃないかと思っています。
─最後に,若手研究者へのメッセージをお願いします。
経験がすごく大事だと思います。研究室内外でどのような経験ができたかが重要です。一つの研究室やフィールドに閉じこもらずに,ほかの先輩研究者や同期の優秀な研究者から,異なる考え方を吸収するとよいです。あと,指導教員をあまり神聖視しすぎず,自分で考えていってほしいですね(笑)。指導教員も一人の研究者なので。
インタビュアーの自己紹介
インタビューを終えて
板口先生からお話をうかがい,運動と心理学の関係性を教えていただき,その新たな切り口にとても心惹かれました。板口先生の「手だって脳にとっては道具の一つである」「運動について心理学の分野に持ち込んで考えたい」といった信念を持って研究に取り組む姿勢に感動しました。インタビューの最中でも哲学を持って研究することが大事だとおっしゃっており,研究の題材の選択の仕方がとても勉強になりました。私も自身の研究について,もう一度整理したいと強く考えるようになりました。一つの哲学と情熱を持って研究に邁進する板口先生の姿勢が格好良く,そこが板口先生の研究が人を惹きつける要因ではないかと思いました。
現在の研究テーマ
私は発達障碍児,特に自閉スペクトラム症児の運動と社会性発達について研究しています。自閉症児は社会スキルズの獲得が遅れており,運動機能の発達もまた遅れていると言われてきました。学生のころから発達障碍児支援をしてきた自身の経験から,社会スキルズと同様に運動や遊びを支援することができるだろうと考えています。特に現在はモーションキャプチャや画像解析を用いて,自閉症児の運動をリアルタイムに定量解析し,そのデータをもとにフィードバックすることでより早く運動の学習ができるのではないかと考え,その技術開発に取り組んでいます。
子どもを支援して,その子どもが変わっていくことを実感できるのが自分の研究のモチベーションです。現在は子どもを対象とした実験が止まってしまっていますが,早く支援研究を再開して,いま準備している実験を行えればと願っています。
Profile─せきね さとる
日本学術振興会特別研究員PD(東京大学生産技術研究所)。専門は応用行動分析学,発達心理学。論文にModeling of the Chasing Behaviors for Developmental Program of Children with Autism Spectrum Disorders (共著, Proceeding of the 2017, IEEE)。
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