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心理学ライフ

心理学研究者,ピアノを習う

牛谷 智一
千葉大学大学院人文科学研究院 准教授

牛谷 智一(うしたに ともかず)

Profile─牛谷 智一
京都大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員(DC)を経て,2005年から現職。専門は比較認知。著書に『動物たちは何を考えている?:動物心理学の挑戦』(分担執筆,技術評論社)など。

昔流行した歌に,我々は自分の限界を知るために生きているわけではない,という趣旨の歌詞がありました。しかし,我々は,むしろ自分の限界を知るために生きているところがあるように思います。私のこれまでの人生は,挑戦と挫折の連続でした。

私が音楽演奏への憧れを持ったのは,小学生高学年ぐらいだったと思います。どなたもご存じの通り,音楽の演奏技術獲得,特にピアノのそれに関しては,幼い頃の学習が決定的に重要です。しかし,私が憧れを持ったときには,すでにその「臨界期」を超えていました。中学校の交流行事で養護施設を訪問したとき,そこにあったピアノを同級生が戯れに弾きこなすのを見て,大いに嫉妬したことをよく覚えています。一番難しそうなものに憧れを抱くのは私の悪い癖で,ピアノ演奏への憧れを密かに長年抱いてきました。

長女が児童音楽教室に通うようになり,「付き添いの私も楽譜ぐらい読めたほうがいいよね」と妻を篭絡して,月2回のピアノレッスンに通い出しました。最近は仕事が忙しく,平日はほとんどピアノにはさわれませんが,月2回のレッスン通いだけは何とか維持しつつ,早くも11年が過ぎようとしています。経験年数だけだと初心者と言えなくなっているのがつらいところです。

習い始める前から容易に想像がついたのですが,ピアノは,左右独立に手指を動かすデュアルコアのCPUがあって,その上で,左右が「合奏」しなければなりません。私の手指はシングルコアで制御されているのでしょう。左右の手が対称にしか動かず,左手の拍の中に右手の音を挟むなんて,無理難題です。そこで私は,両手の動きをすばやいタスクスイッチングで乗りこなすことにしました。つまり左右別々に動かしているように見えても,私の演奏は,タイピングのごとく左右左右左右…とシーケンシャルに動いているのです。

ほかにも,手元を見ないと弾けない(どこにどの鍵があるか指が覚えていない)ので,ひたすら暗譜して,手元だけを見て弾く,といった工夫をしました。しかし,複雑な楽曲になると,それも限界があります。今挑戦している変奏曲は,ひたすら同じようなフレーズが続くのに,ちょっとずつ違っているので,再生項目同士の類似性が高く(干渉が起き),想起(して指を動かす)時のエラー率をどうしてもゼロにできない。先日,先生に「手元見ないで楽譜見て弾いてみれば」とあきれるように言われ,挑戦したところ,これが案外弾ける。同じ曲を足かけ3年もやっているので,この曲限定ではあるのですが,左手が自動化してきているようで,右手との協働も夢ではなくなってきました。

子供のように基礎練習で技術を積み上げるのではなく,それなりの難しい曲を,ひたすらゆっくりゆっくり1小節ずつ練習しています。ご存じの曲をYouTubeで探して0.25倍速モードでお聞きになると体感していただけますが,音同士の群化パターンが崩れ,全然別の曲のように聞こえます[1]。メロディーはたいてい右手の小指,薬指あたりが担当しているのですが,左手や右手の親指,人差し指あたりが鳴らす「伴奏」や「内声部」も(自分自身が弾いていることもあり)群化され,メロディーに干渉してきます。完成形が自分の演奏から一切聞こえてこない状況で長期間練習するのはかなりの苦痛なのですが,練習が進んできて,自分の演奏からメロディーだけが分凝(ぶんぎょう)してくる快感には代えがたいものがあります。

人生は,自分の限界を知るためにあるようなものでしょう。私が今後ピアノを続けても,幼い頃にピアノを習っていた人に到底太刀打ちできません。しかし,心理学研究者の端くれとして,ピアノ学習過程は,注意,記憶,知覚的群化・分凝,どの観点からも興味深い。まだなんの成果も得られていませんが,最近,本業でハトに和音のカテゴリ化を学習させる研究まで始めてしまいました。限界を知ることは,異なる側面の開拓の可能性を見出すという意味でもまた,人生に必須のものなのでしょう。

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