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心理学ライフ

落語×心理学×人工内耳

勝谷 紀子
北陸学院大学人間総合学部社会学科 教授

勝谷 紀子(かつや のりこ)

Profile─勝谷 紀子
青山学院大学社会情報学部助教などを経て2019年より現職。博士(心理学)。専門は心理学,社会福祉学。著書に『難聴者と中途失聴者の心理学』(共著,かもがわ出版),『心理学からみたうつ病』(分担執筆,朝倉書店)など。

落語の稽古をはじめて9年目になります。私はかつて大学の非常勤講師を最大で週12コマ掛け持ちする生活でした。人前で話すのが苦手で嫌いな自分にとって,難行苦行の毎日でした。受講者アンケートに「おどおどするな」「もっとまともな講師に来てほしかった」などと書かれ,教えている側なのに自尊心が下がる始末。

そんな中,目に留まったのが都内の「落語体験教室」のチラシでした。プロの噺家が,一席できるまで一から落語を3ヶ月間教えて下さるというのです。柳家小三治師匠出演のドキュメンタリー番組がきっかけで落語を聴くようになった私は飛びつきました。「落語を習えば話がうまくなるかもしれない」,今思えば実に安直な動機で落語を習うことになったのでした。初披露のネタは与太郎が登場する滑稽噺「牛ほめ」。現在は別の落語教室へ移り,最近覚えた21席目のネタは粗忽者が主役の「堀之内」です。高座前の緊張感,高座中の高揚感,高座後の解放感がすっかりやみつきになりました。

稽古を続け,高座に上がる経験を重ねると思わぬ効果がありました。高座に持っていけるのは手拭いと扇子だけ。資料もスライドもなく,補佐の学生もいません。自分だけが頼りという高座で度胸がつき,場に飲まれることが少なくなりました。ある高座では座布団に座った瞬間に着物がはだけて脚が丸見えに。とっさに登場人物の着物がはだけたことにしてどうにか直したのは良い思い出です。

聞き手の顔を見て話せるようにもなりました。かつては目が合うのが嫌でスライドや資料ばかり見ていました。決められた時間内で話すこともずいぶん意識できるようになりました。落語教室の発表会や社会人落語大会では持ち時間が厳しく決まっているためです(学会も当然ですが……)。同じ噺を15分,10分と異なる時間で話す機会から,要約力のトレーニングにもなりました。

就職活動の不採用通知を受け取った後に高座に上がった日もありました。落胆した気持ちの中,それを出さずに演じないとなりません。ネガティブな感情をいつまでも引きずらないようにもなれました。落語は,ストレス対処方略としても効果を発揮したのです。

2020年9月,私は人工内耳の埋め込み手術を受けました。小学生以来,原因不明の言葉の聞き取り困難を抱えて生きてきましたが,2017年にオーディトリー・ニューロパシーという蝸牛神経の働きが悪くなる非常に珍しい病気だとわかったのです。学会等で私に呼びかけても反応しない等,数々のディスコミュニケーションがこれまであったと思います。この場を借りてやっと事情説明できます。今後は,人工内耳を装用した障害のある研究者として,難聴を隠したことなど数々の「しくじり」体験を障害者支援の研究や実践に活かす形で昇華させていきます。

落語の稽古場では,師匠の講評がよく聞き取れず他の生徒さんによく教えてもらいました。噺を覚える時は,テレビや動画サイトの字幕,落語の速記本や解説サイトを参考に,視覚情報中心にインプットする方略でした。

人工内耳を装用しても,眼鏡と違ってすぐに聞こえるようになるわけではありません。聞く力を取り戻すリハビリが必要でしたが,助けてくれたのが落語でした。

手術後,落語教室の稽古に復帰しました。人工内耳の体外装置を装用する前段階で左耳がほとんど聞こえず,自分の声ばかりが頭の中で響くこれまでにない異様な感覚の中,「代書屋」を稽古しました。師匠は講評をタイプして伝えてくれました。人工内耳を装用した直後,人の声が宇宙人の声真似(「ワレワレハウチュウジンダ」)のように聞こえていたのが,手術後初高座を務めた年末頃には,ほぼ人間の声に近くなりました。初めて人工内耳を装用して「代書屋」をどうにか最後まで務め,これまでにない解放感で高座を降りました。

落語は,笑いだけでなく,解放感や感動などさまざまな感情を聴き手だけでなく演者にも起こさせると気づきました。うまくやれないと客をはらはらさせ,心配や不安を感じさせてしまいますが。研究活動に打ち込み,成果を発信することにもつながる面があるように思います。これからも稽古を重ねていきます。

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