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【小特集】

言語とマンガの相同性

出原 健一
滋賀大学経済学部 教授

出原 健一(いではら けんいち)

Profile─出原 健一
慶應義塾大学文学研究科英米文学専攻前期博士課程修了後,信州大学人文学部助手,滋賀大学経済学部講師,助教授,准教授を経て,2017年より現職。著書に『マンガ学からの言語研究』(単著,ひつじ書房)など。

よく勘違いをされるので最初にお断りしておかなくてはならないが,私は言語学の観点からマンガの研究をしているわけではない。例えばコーン[1]は,言語学の概念を用いてマンガ(より広く,ビジュアル言語)を研究しているが,私はむしろ逆で,マンガ学の知見を用いて言語現象を分析している。本稿ではその一端をご紹介したい。

私の専門分野である認知言語学では,普遍文法のような言語特有の生得的な装置を想定せずとも,基本的には五感などの一般認知能力から言語の獲得は可能であると考えられている。これが正しいとすれば言語も他の文化的構築物と同列に考えることができ,言語間の違いが他の文化的構築物の違いに同じように現れていても不思議ではない。例えば,『雪国』の冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」を逐語的に英訳することは困難で,一例として“The train came out of the long tunnel into the snow country.”のようになるが,このように日本語では語り手が状況の中に入り込んでそこから見えるものを言語化する傾向があるのに対し,英語では語る状況全体を見渡し俯瞰的に捉える傾向があると言われている。池上[2]はこの傾向が絵画や造園法などにも見られることを指摘し,この並行関係を「相同性」と呼んだが,その後の研究で,様々な文化的構築物において相同性が見られることが指摘されている。日米のマンガにおいてもコーン[1](p.199)などで同様の傾向の違いが指摘されている。

さて,このように言語とマンガの間で相同性が見られるのであれば,一方の知見がもう一方の研究に貢献できる可能性がある。しかし,言語学を応用したマンガ研究は,コーンの研究も含め時折見られるが,マンガ学を応用した言語研究はこれまであまりなされていない。このような発想は奇異に聞こえるかもしれないが,先の『雪国』の例で鍵となっている「視点」(どこから何を見ているのか)に関して言えば,絵で描かれるマンガの方が言語よりもまさに「一目瞭然」であり,現にマンガ学ではかなり研究が進んでいる。マンガ学における視点論が,これまで言語学では見落としてきた「視点」を補填できるかもしれない。

認知言語学で「視点」が論じられる場合,「主観的把握」と「客観的把握」という概念がよく用いられる[3]。詳細な説明をする紙幅はないが,『雪国』の例で見たように,状況内からの視点が前者,状況外からの視点が後者と言ってよいだろう。この二つの概念で非常に多くの言語現象が分析されているが,それでも説明が難しい現象もある。その一つとして,欧米の小説などでよく使われる自由間接話法(描出話法)が挙げられる。直接話法は主観的把握,間接話法は客観的把握と言われているが,自由間接話法では,その両方の特徴が言語化されている。

①She stared at him in speechless amazement. How could he come back so soon? Why had he not informed her of his return? [4]

①の2文目からが自由間接話法であるが,語順には直接話法の特徴が,時制や代名詞には間接話法の特徴が現れている。このような二重の視点が言語化されているケースを上記の二つの「視点」だけで説明するのは難しい。

ところが,マンガ学では二つの視点が混ざった視点概念がすでに提案されている。

図1
図1[5]

図1の1コマ目(右)では「きれい」と言っている女性を眼鏡をかけた男性(以下,男1)が見ているが,2コマ目(左)ではワイングラスを掲げた男性(以下,男2)を男1が見ている。これは別の二人を男1が見ているわけではなく,男1が女性を見て,男2のことを思い出し,その女性に男2を投影させている場面である。つまりこの場で男2が「見える」のは男1だけなので,2コマ目は男1の視点ということになる。登場人物の視点ということでこれを主観的把握と考えてよい[6]ように思えるが,一点問題がある。男1の「見え」にもかかわらず,男1の後ろ姿が入り込んでいる点である。当然ながら本来自分自身が視界に入ることはない。このように,登場人物の視点と考えられるにもかかわらず,その登場人物自身も描かれている構図を泉[7]は「身体離脱ショット」と呼んでいる。これは心理学では「背後霊的視点」,映画論では「肩ナメショット」として知られているが,マンガでは図1のように現実にはあり得ない情景が描かれることも多いせいか,単に本来の視座から少し「肩ナメ」気味の視点としてではなく,登場人物の視点と客観的な視点が混ざったものとして泉は説明している。このような二重の視点は,語り手の視点と登場人物の視点が重なる自由間接話法とパラレルに考えてよいだろう。

この複雑な視点を小説やマンガの読者はなぜ適切に理解できるのだろうか。①で考えてみよう。もしいきなり2文目から始まったとすると,この文が誰の考えなのか,herやhimとは誰のことを指しているのか分からない。ここでは1文目に“she”が彼を「見」て「驚いた」とあることで,“she”に読者の注目を集め,なぜ驚いたのかという疑問を想起させることで,自由間接話法(ここでは疑問文)の理解を容易にさせていると考えられる。このように,自由間接話法の直前に読者の理解を促す記述があることは多くの研究者が指摘しており,出原[6]は「キュー(cue)」と呼んだ。ある登場人物の知覚(「見る」など)・行為(「振り向く」など)・判断(「驚く」など)を述べて,読者をその登場人物に注目させた後に,その登場人物の内面・思考などを語り手と登場人物の両方の視点を持つ自由間接話法で表現することで,滑らかに読者を登場人物の視点に誘導することができるのである。このプロセスはまさに「共同注意」であることにお気づきの方もおられるだろう。つまり,初めに語り手が登場人物の知覚などを表す表現を提示することで,登場人物に対し読者と誘導的共同注意を成立させる。そしてその後に登場人物の思考などを提示することで,読者は語り手というよりはむしろ登場人物と(疑似的にではあるが)追跡的共同注意を成立させることになるわけである。自由間接話法が登場人物との共感を生み出すと言われるのもこのように考えれば当然と言えよう。

以上のことはマンガ学においても議論されている。図1の1コマ目では男1が女性を「見ている」光景が描かれ,その後に男1の視点コマが来る,という流れであったが,これを竹内[8]は「同一化技法(モンタージュ型)」と名付けた。竹内は,2コマ目は純粋な主観ショットとして論じているが,図1のように身体離脱ショットが来ることもあれば,2コマ目に身体離脱ショット,3コマ目に主観ショットが来ることも多い。いずれにしても,基本的な流れとしては自由間接話法と同じと言ってよいだろう。

ちなみに日本語には自由間接話法はないと言われており,代わりにカギ括弧のない直接話法が使われるが,マンガやライトノベルなどでは,ルビを使って二重の視点を表現しているようである。

②お前は噂程度だろうが「沢良宜さんが好きなのは友一」で「天智(俺)とは昔付き合っていた」と知ったんだ[9]

②は「天智」が「四部」という友人に話している場面で,カギ括弧内は「四部」の思考を「天智」が代弁している。したがって「俺」というルビは話し手である「天智」視点ということになる。このように代名詞をルビに振って二重の視点を表現するケースは非常に多い。

以上,マンガと言語の相同性の一端をご紹介したが,今回の小特集を機に,マンガ学との学際的研究が増えれば幸いである。

注・文献

  • 1.コーン,N. /中澤潤(訳) (2020). 『マンガの認知科学:ビジュアル言語で読み解くその世界』北大路書房
  • 2.池上嘉彦 (2006). 『英語の感覚・日本語の感覚:〈ことばの意味〉のしくみ』NHKブックス
  • 3.池上嘉彦 (2000). 『「日本語論」への招待』講談社
  • 4.江川泰一郎 (1991). 『英文法解説(改訂3版)』金子書房
  • 5.亜樹直(作),オキモト・シュウ(画) (2004). 『神の雫(第1巻)』講談社
  • 6.詳細な議論は出原健一 (2021). 『マンガ学からの言語研究』(ひつじ書房)を参照。
  • 7.泉信行 (2008). 『漫画をめくる冒険:読み方から見え方まで(上巻・視点)』ピアノ・ファイア・パブリッシング
  • 8.竹内オサム. (2005). 『マンガ表現学入門』筑摩書房
  • 9.山口ミコト(作),佐藤友生(画) (2014). 『トモダチゲーム(第2巻)』講談社
  • *COI:開示すべき利益相反はない。

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