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心理学ライフ

テンパリングする精神

細馬 宏通
早稲田大学文学学術院 教授

細馬 宏通(ほそま ひろみち)

Profile─細馬 宏通
京都大学大学院理学研究科(理学博士),滋賀県立大学人間文化学部教授を経て現職。専門は行動学。単著に『うたのしくみ 増補完全版』(ぴあ),『介護するからだ』(医学書院),編著に『ELAN入門』(ひつじ書房)など。

スパイスに手を出してしまった。

カレーをスパイスから作るという知人は何人かいたし,勧められたことも何度かあった。が,生来ズボラな性分で,なかなか気が向かなかった。だいたいスパイスというのが,物理的に細かすぎる。カレーを作るなら,野菜と肉をひたすら煮込み,できあいの板状のやつをぽんぽんと鍋に放り込めば,どうにか格好がつくではないか。小さじ何杯だの,ひとつまみだの,ちまちまやってられるか。そう思っていたのだ。

この夏,とある研究学会で,ことばと食べ物をテーマにしたイベントがあった。登壇者は,南インド料理の著作で知られる稲田俊輔氏で,簡単な実演付きだった。

大教室の壇上にIHヒーターが一台据えられている。稲田氏はおもむろに鍋を置き,油を温めてから,スパイスを入れ始めた。まず,マスタード・シードをぱらぱら,それからウラド・ダルという豆。「この作業はテンパリングといいまして,油で香味野菜やスパイスの香りを引き出すところからスタートするのが世界でよくあるやりかたなんです…」そう語りながら,白くあがる煙を眺めている。「テンパリング」ということばは,初めてきいた。ぱちぱちじゅうじゅうという音がきこえてきて,ようやくたまねぎ,しょうが,青唐辛子,そしてカレーリーフが加わる。それからさらにしばしして,匂いがようやく大教室の中程にいるわたしに届いた。豆?せんべい?嗅いだことがないのに懐かしいような,不思議な匂い。「この香りなんですよね,この香りを記憶に焼き付けておいて下さい」。

二日後,仕事を終えて新大久保に向かった。インド系の食材店に入ってみると,見たこともないスパイスが一袋100円でずらりと並んでいた。名前に覚えのあるものをいくつか買って帰った。

何を作るあてもなく,油を弱火にかけ,そこにマスタード・シードとウラド・ダルを適当に入れてみた。鍋の上が熱を帯びてきたものの,油の温まる匂いしかしない。だめかと思ったが,さらに待っていると,マスタード・シードの周りが泡立ち始め,ぱちぱちと弾けて,やや大粒のウラド・ダルもつやつやしてきたところで,明らかに油とは異なる匂いがしてきた。ここだなと思って,たまねぎとしょうがを入れて,カレーリーフをぱらぱらと加える。根気よく待つと,あの匂いが来た。これか。火にかけてからせいぜい5分くらいだったのかもしれないが,いつも仕事を終えてから急いで作るので,素材を入れるまでにこんなに時間をかけるということがなかった。

炊飯器の余った飯と塩を放り込んで炒めた。名状しがたい,焼き飯のようなもの。これがなんとも美味かった。テンパリング,いいじゃないか。スパイスを加えるというよりは,油で素揚げするような感覚なのだな。そういえば,「天ぷら」ということばに似ている。「天ぷら」は江戸期の南蛮渡来のことばではなかったっけ。ポルトガル語の辞書を引いてみたら(いまはネットのおかげでこういうことが気軽にできる),意外にも,もとのことばは天ぷらそのものではなく「tempero」,すなわち「調理」の意味だとある。

あ,そうか。これは英語の「temper」と語源が同じだ。今度はOEDを引いてみる。もともと「temper」は,さまざまな要素や質の混ざったもの,あるいはそれがうまく混ざった状態を意味しており,そこから,さまざまな感情の状態が混ざったもの,あるいは精神状態の均衡としての「temper 気質」の意味が発生したらしい。温度を表す「temperature」も,もとは感情の混合したものを意味したらしい。そういえば,ピアノには,それぞれの調の特徴を引き出す「ウェル・テンパード」という調律法があるが,あれも「temper」のもともとの意味からきているのだろう。つまりこうだ。スパイスを調合し,温度を調整し,油に味を混ぜ合わせる。その時間がテンパリングしている者のtemperに変化を与え,微かな高揚をもたらす。

スパイスは籠いっぱいになった。近頃は毎食,料理本と首っ引きでインド料理を作っている。テンパリングとは精神の天ぷらである。そんな,心理学的にはいささか不用意なフレーズを思いついて悦に入っている。

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