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心理学ライフ

借りたい猫の手,描きたい人の手

木下 寛子
九州大学大学院人間環境学研究院 准教授

木下 寛子(きのした ひろこ)

Profile─木下 寛子
2020年より現職。博士(人間環境学)。専門は環境心理学,教育環境学。いくつかの小学校のフィールドワークをもとに雰囲気や風土,地域性について研究している。著書に『出会いと雰囲気の解釈学』(単著,九州大学出版会)など。

 

日ごろ九州北部の小学校を訪れ,学校生活の一端をご一緒させてもらっています。猫の手も借りたいほどの多忙な学校現場です。多少とも役に立ちたいと思いますが,実際のところは学校生活の邪魔にならないようにするのが精いっぱいで,猫の手にも及びません。そのままこの学校とのお付き合いも20年を迎えました。

しかし歳月とはありがたいもので,学校の子どもたちや先生たちのほうが,余技の「描く力」を見出して重宝してくれるようになりました。もともと学童保育に通う子どもたちに頼まれて,漫画のキャラクターなどを描いていました。それが小学校の先生方に知られるところとなり,やがて学校紹介の冊子や通知表の表紙の絵,ロゴマークなどを描かせてもらえるようになりました。最近は卒業式や入学式などの日に,教室の黒板にお祝いの絵を描くのも恒例です。

小学校の日常を彩る絵とは別に,小学校に関連して描き続けているものがあります。学校の記録係を兼ねて学校の日常場面を撮影しているのですが,その写真をもとに絵を描き起こしているのです。

発端は夏休みのある日のことでした。1年生の子どもたちと校庭の観察池を見に行った時のことでした。強い日差しのもとで水面は揺れて輝き,池の底まで覗き込もうとする子どもたちの頬やうなじは太陽の光を反射する産毛に縁どられ,白く光っていました。その明るさは,明るいところと陰になって暗いところとのギャップが深い学校の校舎内とは対照的です(これは南面片側採光の古典的で一般的な校舎の特徴のようです)。校庭の明るさ,校舎内の深い陰影は学校らしさそのものでした。そのことに気づいた時,不意に学校の風景を描きたいという思いに駆られました。とりわけ,子どもが駆け抜け,先生たちが歩き,互いに顔を寄せ合う瞬間の光と陰を描きたいと思いました。4Hから5Bまでの鉛筆を揃え,おぼつかない手でデッサンを始めました。

描きたくて描き始めた学校の風景のデッサンは,学校の先生たちや子どもたちから望まれて描いた絵とは違って,学校の日常的な場面に用立てられることはまずありません。そのかわりに時折,学校で共にしている日々のお礼と報告を兼ねて,小さな絵本やカードに仕立てて先生たちや校区の方々,子どもたちやその保護者に渡しています。ある時,離任を目前にしたある先生にその絵本を送りました。すると先生はしばらく絵を見て,ふと「そうか,私たちはこんな学校にいたのか」と言いました。赴任してすでに5年が経過した先生でした。この学校を知り尽くしていたはずで,絵に描かれていたどの場面もおなじみのもののはずでした。けれどもその時の言葉には,あたかも学校の日常を初めて目の当たりにしたかのような驚きがありました。そして離任を前に,この学校での経験が,あらためて良いものとして思い返されてきた,というしみじみとした感慨も含んでいました。

学校生活を彩り,入学式や卒業式の晴れがましい日を飾り,時に学校でのありふれた日々を描いて贈る─。それらは,現場の多忙さを解消する手助けにはなりません。けれども絵を描く余技を価値あるものとして見出してくれたのは先生たちや子どもたちでした。そしてその人たちが絵の仕上がりを楽しみにしてくれたり,学校の日常を新しい目で見るきっかけにしてくれたりしています。小学校で過ごす日々はそんな様子に遭遇させてくれて,「役には立つ」こととは別に何か大事なことがあること,そしてそれを考えることの必要性も教えてくれているようです。

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