公益社団法人 日本心理学会

詳細検索

心理学ワールド 絞込み


号 ~

執筆・投稿の手びき 絞込み

MENU

刊行物

裏から読んでも心理学

鍛錬の先に待つもの

慶應義塾大学文学部 教授

平石 界

どんなものでも万能ということはなかなかないですよね。例えば辞書。基本はお役立ちで感謝なわけですが,時々,期待を裏切ってくる。「brand」を「焼き印」って説明が足りなさすぎでしょ。「discipline」もそう。なんで「鍛錬」や「規律」と「学問の分野」が同じ単語になるのさ。とある実験哲学の論文を読んで,そんな経験を思い出しました(Maćkiewicz et al., 2023)。

ということで突然ですが質問です。

花子は太郎の友人です。太郎の記憶では,花子は何年もビュイックというアメ車[*]に乗っています。なので太郎は,花子はアメ車に乗ってると思っています。実は花子は最近,太郎の知らないうちに,ポンティアックというアメ車に乗り換えました。さて「太郎は花子がアメ車に乗ってることを知ってる」と言えるでしょうか?

ゲティア問題(Gettier case)って言うんですって。哲学の有名な思考実験の一つだそうなんですが,困ったことが。実験と言うからには再現性があって,およそ「人間」に尋ねたら同じ回答が出てきて欲しいわけですが,一般人に回答してもらうと,人によって回答が違う。「いやー,それってまずいんじゃない」と議論になるわけですが,「専門性のない素人の回答がバラついても哲学的には問題ない」という意見もある。なるほど,それじゃ哲学の専門性って一体なんだろう,どうやって身につくのだろう? ということでワルシャワ大学の哲学専攻の学生に,入学時から4年の頭まで,毎学期始めに同じ10の思考実験に繰り返し回答してもらったのが件の論文。もちろん統制群(認知科学専攻)も設けてます。

読み始めに期待したほどクリアな結果ではなかったのですが,それはそれ,興味深い知見もありました。その一つが先述のゲティア問題。1年前期の講義で集中的に扱うそうなのですが,その甲斐あってか,入学時には見られなかった専攻による差が,半年後の“実験”ではきっちり現れました。哲学の担当教員によれば「そりゃ,うちの学生はガッツリ鍛えましたんでね(極端な意訳)」とのこと。

何かがちょびっとモヤる気もしますが,加えて気になったことが。ひたすら論文が読みづらいのです。なぜって自分の鍛錬が圧倒的に足りない。例えば論文中では「アメ車問題」が「ゲティア問題」であることの説明がない。専門家なら一発で分かるだろうゲティア=アメ車の対応をつけるのにしばらく掛かりました。他にも「ジョンと温度計問題」=Truetempとか,「誕生日パーティ問題」=Knobeとか,素人的には「知らんがな」な組み合わせが多数,説明なく登場する。さらに困ったことに諸々の思考実験の哲学的に正統な回答が何なのかも良くわからない(書いてない)。いろいろ 調べてみたものの自信が持てず,なのでここで「アメ車問題の正解はこれ」と紹介できません。

ああでもこれって心理学論文を読み始めた頃と同じ。Meanが平均って分からず,なんて意地悪なんだろうって思ったなぁ。こうやって学生と参加者を鍛え上げて,先人の蓄積を未来に繋げていくのが「分野」なのであるなぁとしみじみ。気がつけば,初めてリッカートの質問紙を見たときの納得のいかなさをすっかり忘れて,心は数字にして並べられるものと思い込んで幾星霜(Wijsen et al., 2022)。見落としているものも少なくなさそうですが,何についてもなかなか,万能ってわけにはいかないですものね。

Profile─ひらいし かい
東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。東京大学,京都大学,安田女子大学を経て,2015年4月より慶應義塾大学。博士(学術)。専門は進化心理学。

  • アメ車とは米国メーカーの車(アメリカ車)のことです。ビュイックもポンティアックも代表的なアメ車ブランドです。

PDFをダウンロード

1