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- 108号 行動主義を見つめなおす――心なき心理学と呼ばれて
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【特集】
科学的方法論として人の行動の原因に心を措定するほうがよいか?
森元 良太(もりもと りょうた)
Profile─森元 良太
2007年,慶應義塾大学大学院文学研究科哲学専攻後期博士課程単位取得後退学。哲学博士。専門は科学哲学。2019年より現職。著書に『統計学再入門:科学哲学から探る統計思考の原点』(単著,近代科学社),『生物学の哲学入門』(共著,勁草書房)など,訳書に『オッカムのかみそり』(単独訳,勁草書房)など。
1 認知心理学と機能主義
心の研究は1960年代以降,認知心理学が主流である。認知心理学では,人はコンピュータになぞらえて,一種の情報処理システムとみなされる。コンピュータは,入力された情報を内部で計算処理し,その結果を出力する。こうしたコンピュータになぞらえると,人は入力された刺激を内部で計算処理し,その結果として反応するものとみなされる。
哲学でも1960年代に,心と身体(物体)の関係を情報処理の観点から捉える機能主義という立場が興隆した。機能主義によると,心の状態はある種の機能をもった状態である。機能とは例えば,部屋を暖かくするのがエアコンの機能であるように,何らかの物体によって実現されるものである。痛みという心の状態は,脳のある部位の機能であり,その部位の興奮状態と同じである。機能主義によると,心の状態は脳の計算処理状態と解され,機能主義は認知心理学を支える心の見方だとされている[1]。
しかし,機能主義に対して多くの批判が寄せられている。機能主義では心を解明できないというわけだ。そこで次節では,機能主義に対する批判をとりあげる。機能主義の問題点は,神経科学や生理学によって心を理解するアプローチにも波及する。ただし,神経科学や生理学そのものが問題というわけではなく,心を解明するのに神経科学や生理学では十分でないということである。実際,生物学では神経科学や生理学によって動物の行動を説明している。そこで3節では,生物学における動物行動の説明を確認する。では,人の行動の説明に心を措定する必要はあるのだろうか。現状では,行動の原因として心を措定すべきかどうかは実験や観察で白黒つけられていない。4節では,競合する複数の仮説の優劣が実験や観察で決まらないときに,科学でよく用いられるオッカムのかみそりという原理とその活用例を紹介する。そして5節と6節では,オッカムのかみそりを用いて,行動の原因に心を措定しない仮説のほうが措定する仮説よりもよいことを論じる。
2 機能主義の問題点
機能主義に対しては多くの批判が寄せられている。ここでは,そのなかの2つの批判を紹介する。
まずは1つ目の批判である。もし私とあなたの知覚する色のスペクトルが反転していたとしよう。例えば,あなたの知覚する赤色の経験と私の知覚する緑色の経験が同じだとする。そうすると,2人の行動はどうなるだろうか。実は,2人の行動は変わらない。あなたが私に赤色の唐辛子をとってというと,私は赤色の唐辛子をとる。つまり,赤色の唐辛子を指し示すことについて,あなたと私の機能的状態は同じである。このとき,唐辛子自体は赤色だが,私が知覚として経験している色は緑色である。だが,私はその緑色に知覚される色を赤色と呼んでいるので,私はあなたの指示どおり赤色の唐辛子をとる。このように,内的に経験する色のスペクトルが反転していても,外から観察される行動は何も変わらない。厄介なのは,内的な経験は当の本人にしかわからないことである。私の内的に経験する色の見えはあなたにはわからず,あなたの色の見えも私にはわからない。だが,機能主義では,同じ機能を果たしていれば同じ心の状態とみなすので,赤色の唐辛子を見たときのあなたと私の心の状態は異なっているにもかかわらず,同じ機能的状態とされてしまう。それゆえ,機能主義は誤っていることになる[2]。
2つ目の批判に移ろう。あなたとまったく同じ物質からできているが,意識だけがないゾンビを想定してみよう。このゾンビはあなたとまったく同じように行動し,例えば上腕の内側をつねられると,「痛い」と叫んで痛がっている表情をする。しかし,このゾンビには「痛い」と叫ぶなどの痛みの機能的状態はありつつも,痛みの意識はない。この種のゾンビは「哲学的ゾンビ」と呼ばれ,噛みつかれた人がゾンビになるようなホラー映画に出てくるゾンビとは異なる。哲学的ゾンビは意識がない点以外,あなたと外見や内部組織は同じであり,哲学的ゾンビに嚙まれてもゾンビになることはない。このような哲学的ゾンビを想定することはできるだろう。しかし,常識的に考えると,意識は明らかに行動や意思決定に使用されているにもかかわらず,機能主義では意識は何の機能ももたず,不要なものになってしまう。そのため,機能主義は哲学的ゾンビという明らかに奇妙な存在を否定できない。こうしたゾンビを想定できるのなら,またしても機能主義のアプローチでは心を説明できないことになってしまう[3]。哲学的ゾンビの論証では,ゾンビと人間が物理的に同じ状態であっても,異なる心の状態(ゾンビの機能的状態と,人間の機能的状態に意識を加えた状態)にあると想定できることを示している。それゆえ,機能主義のアプローチでは意識の状態の有無や違いを明らかにすることができない。
これらの機能主義への批判は,神経科学や生理学によって心を解明しようとするアプローチの問題点も浮き彫りにする。スペクトル反転の事例では,私の知覚する色の経験は誰にもわからないので,物体に反射した光が網膜にたどりついて,神経細胞や神経伝達物質を変化させる物理的な過程が明らかになったとしても,実際の物体の色が内的に知覚される色の見えと同じかどうかはわからない。哲学的ゾンビの事例でも同様で,人と哲学的ゾンビは同じ物質からできているので,神経細胞や神経伝達物質の変化の過程を明らかにしても,意識の状態の違いを明らかにはできない。すなわち,神経科学や生理学によっては心の状態を明らかにできないことになる。
注意すべきは,神経科学や生理学によって心を理解するアプローチに異を唱えているのであり,神経科学自体を批判しているわけではない点である。神経科学によって行動を説明しようとするのは,生物学では一般的な方法であり,ここでの批判はあたらない。次節では,生物学における動物行動の一般的な説明を確認しよう。
3 生物学における動物行動研究のアプローチ
生物学では通常,動物の行動を説明するのに心の概念に依拠しない。生物学者は心の概念を使いたいという願望があったとしても,科学研究としてそうした仮説を受け入れておらず,科学的には神経科学や生理学の用語に終始せざるをえない。
生物学者の吉田将之氏は動物行動を説明するのに心的概念を用いたいが,科学者としてそのアプローチをとれない本音を漏らしている。吉田は,神経科学や生理学にもとづいた第1のアプローチと,心を措定する第2のアプローチを比較する。例えば,スズキという魚が川を遡上する行動について,第1のアプローチでは次のように説明する。体に傷を負った魚の傷口から水が損失し,魚の体液濃度が上昇し,反射として方向転換と遊泳をおこない,周囲の塩分濃度が直前よりも低ければそのまま前進し,濃度が高ければ再度方向転換をする。魚はこれを繰り返し,塩分濃度の低い川に移動して,結果的に川を遡上する。第1のアプローチでは,心を措定せずに,刺激と反応の連鎖として動物の行動を説明する。
一方,第2のアプローチでは次のように説明する。スズキは川の塩分濃度が低く,海の濃度が高いことを知っていて,傷ついたときは塩分濃度が低いほうが楽なことを知っている。スズキは身体が傷つくとしんどいので,楽するために川を遡上する。この第2のアプローチでは,知っている,しんどい,楽をするといった心を使った説明になっている。
生物学者として吉田は次のように述べる。「第1の考え方は,実験的な証明の道筋を考えやすい,特定の行動が生じるしくみを研究するときの一般的な(あるいは古典的な)アプローチである。要素ごとの原因と結果がきっちり対応していて,その連鎖によって,最終的に一見複雑な行動が実現する。一方,私たちは第2の考え方を検証する手立てをいまだもっていない。これをなんとかできないだろうか。私たちは,ずっと第1のアプローチをとってきた。これからもそうだろう。しかし,それだけでは済まされない段階に来ているのではないだろうか」[4]。
このように,生物学では動物の行動を説明するのに,心の概念に依拠せずに,神経科学や生理学に終始するアプローチが採用されている。上の引用では,心を措定した仮説による説明を試みたいが,科学者としては受け入れられない葛藤が表れている。
4 オッカムのかみそり
ここまでで,人の行動の原因に心を措定する仮説に問題があることがわかった。だからといって,心を措定しない仮説を擁護できたわけではない。心を措定しない仮説を立てる分野に,例えば行動分析学がある。「行動分析学では,『心』の代わりに,行動を予測したり制御したりすることができる環境要因を,行動の原因として考えている」[5]。ちなみに,行動分析学は行動の原因に心を措定しないので,先の機能主義への批判を回避することができる。
行動の原因に心を措定すべきかどうかという問題が実験や観察によって白黒つくのであれば,すでにどちらかに軍配が上がっているだろう。だが現在まで,そのような決定的実験はない。競合する複数の仮説が実験や観察によって白黒つけられない場合,科学ではよく単純性の観点から仮説の優劣が論じられる。単純な仮説が複雑な仮説よりもよいという原理は,中世の哲学者W・オッカムの名にちなみ「オッカムのかみそり」と呼ばれる。オッカムは「不必要に多くを想定するべきではない」[6]と主張した。
これが仮説に優劣をつける唯一の原理ではないが,科学の発展に重要な役割を担ってきたのは事実である。N・コペルニクスが当時定説であった地球中心説を批判し,自身の太陽中心説を支持する際に訴えたのがオッカムのかみそりである。また,I・ニュートンは「自然界の事物の原因として,真理でありかつその現象を説明するのに十分であるより多くのものを認めるべきではない」[7]という規則を科学的方法論として導入した。さらに,A・アインシュタインは,「すべての理論の究極の目標は,経験データを一つ残らず適切に表現して,還元不可能な基本要素をできるかぎり単純かつ少なくすることである」[8]と述べ,相対性理論はこの原理によってどたりついたと回顧している。このように,不必要に対象を増やさないという原理が科学の方法論として用いられてきた。そこで以下では,オッカムのかみそりを用いて,心を措定する仮説と措定しない仮説の優劣について検討する。
5 ネイマン-ピアソン流の仮説検定
オッカムのかみそりによると,不必要に対象を増やすべきではない。これは,本当は存在しないにもかかわらず,誤って存在すると判断してしまうことへの警鐘と捉えられる。これと対をなすのが,本当は存在するにもかかわらず,誤って存在しないとしてしまう判断である。こうした2種類の誤りは統計学にも登場する。統計学では,前者を「第Ⅰ種の過誤」,後者を「第Ⅱ種の過誤」と呼ぶ(表1)。ある仮説H0とその対立仮説H1について,第Ⅰ種の過誤はH0が真であるときにH0を棄却する誤り,第2種の過誤はH1が真であるときにH0を採択する誤りである[9]。
科学哲学者のE・ソーバーはこの2種類の過誤の枠組みを,心を措定する仮説と措定しない仮説にあてはめた(表2)。H0は心を行動の原因として措定しない仮説,H1は心を行動の原因として想定する仮説に対応する。H0はH1に比べて仮定する対象の数が少ないので単純である。すると,第Ⅰ種の過誤は,心が行動の原因でないのに心が原因だと措定してしまう誤り,第Ⅱ種の過誤は,心が行動の原因であるのに心が原因だと措定しない誤りにあたる[10]。
統計学における検定理論に2種類の過誤を導入したのはJ・ネイマンとE・S・ピアソンである。ネイマンらによると,2種類の過誤の深刻さは等しくなく,第Ⅰ種の過誤を第Ⅱ種の過誤より優先して避けるべきである。例えば,新薬の開発において避けたい過誤は,その薬が本当は効果がないにもかかわらず効果があると判断して市場で販売することであり,これが第Ⅰ種の過誤にあたる。もし効果がない薬品が市場に出回ってしまうと人々に危険がおよび,経済的な損失も大きい。一方,効果があるにもかかわらず効果がないと判断した場合,そうしたことは生じない。効果がない薬だと警戒したけれども,結局その薬は効果があるので,危険もなく経済的損失も少ない。これは第Ⅱ種の過誤にあたる。このように,どちらの過誤を第Ⅰ種として優先的に回避するべきかという判断は経済的損失や危険性に関わる[11]。
2種類の過誤の深刻さの非対称性を,先のソーバーによる仮説の分類に対応させてみよう。すると,心が行動の原因でないのに心を原因だと措定してしまう誤り(第Ⅰ種の過誤)のほうを優先して回避すべきということになる。一方,心が行動の原因であるのに心を原因だと措定しない誤り(第Ⅱ種の過誤)は第Ⅰ種の過誤よりも深刻ではない。すなわち,心が行動の原因と措定したときの誤りのほうが措定しないときの誤りよりも回避すべきである。オッカムのかみそりを用いると,心が行動の原因だと措定しない仮説のほうがよいことになる[12]。
ちなみに,ネイマンとピアソンが構築した検定理論を「仮説検定」と呼ぶが,この理論はR・フィシャーの考案した「有意性検定」がもとになっている。最後に,心を措定する仮説と措定しない仮説の優劣について,フィッシャーによる有意性検定の考え方にもとづいて検討してみよう。
6 フィッシャー流の有意性検定
ネイマンとピアソンによる仮説検定では,H0とH1という2つの仮説を設定した。一方,フィッシャーによる有意性検定では,帰無仮説H0という1つの仮説しか設定しない。そのため,第Ⅰ種の過誤は生じうるが,第Ⅱ種の過誤が生じることはない[13]。有意性検定では,第Ⅰ種の過誤をできるかぎり回避する必要があるので,心が行動の原因でないにもかかわらず,心を措定してしまう誤りは避けなければならないことになる。
また,有意性検定では,データに照らして仮説を棄却することは認められるが,仮説を採択することは認められない。というのも,フィッシャーによると,科学では存在するかどうかわからない対象を措定した仮説を採択するような大胆な態度をとるべきではないからである[14]。科学的方法論についてこのような保守的な態度は,科学哲学者のK・ポパーの反証主義に近い。ポパーによると,実験や観察によって科学的仮説の正しさは示されない。というのも,仮説の正しさを示そうとする検証は論理的に妥当でないからである。一方,実験や観察によって仮説の誤りを示す反証の論理は演繹であり,論理的に妥当である。それゆえポパーは,科学的仮説は反証可能であるべきだと主張し,科学の営みは,仮説を形成し,それを反証の危険にさらし続けることであるとした[15]。こうした保守的な科学的態度によると,行動の原因に心を措定しない仮説のほうが,心を措定する仮説よりもよいことになる[12]。これが,科学でごく一般的に用いられている統計学の検定理論の考え方からの帰結である。
文献
- 1.信原幸弘編 (2017) 心の哲学:新時代の心の科学をめぐる哲学の問い (p.36). 新曜社
- 2.サール, J. R. /山本貴光・吉川浩満訳 (2006) Mind = マインド:心の哲学. 朝日出版社
- 3.チャーマーズ, D./林一訳 (2001) 意識する心:脳と精神の根本理論を求めて. 白揚社
- 4.吉田将之(2017)魚だって考える:キンギョの好奇心,ハゼの空間認知 (p.194). 築地書館
- 5.坂上貴之・井上雅彦 (2018) 行動分析学:行動の科学的理解をめざして (p.23). 有斐閣
- 6.Ockham, W. (1986) Scriptum in librum primum sententiarum (Ordinatio). In G. J. Etzkorn & F. E. Kelley (Eds.), Opera theological, vol. IV (p.202). Franciscan Institute Press.
- 7.Newton, I. / I. B. Cohen & A. Whitman, Trans. (1999) The principia: mathematical principles of natural philosophy (p.794). University of California Press.
- 8.Einstein, A. (1973) On the method of theoretical physics, the Herbert Spencer lecture. Reprinted in A. Einstein, Ideas and opinions (p.272). Souvenir Press.
- 9.Neyman, J. (1950) The first course in probability and statistics (p.261). Holt.
- 10.Sober, E. (2005) Comparative psychology meets evolutionary biology: Morganʼs canon and cladistic parsimony. In L. Datson & G. Mitman (Eds.), Thinking with animals: New perspectives on anthropomorphism (pp.85–99). Columbia University Press.
- 11.Neyman, J. (1950) The first course in probability and statistics (pp.262–263). Holt.
- 12.森元良太 (2021) 行動分析学研究, 35, 165–176.
- 13.森元良太 (2024) 統計学再入門:科学哲学から探る統計思考の原点(pp.150–151). 近代科学社
- 14.Fisher, R. (1956) Statistical methods and scientific inference. Oliver and Boyd.
- 15.ポパー,K. /大内義一・森博訳 (1971–72) 科学的発見の論理(上・下). 恒星社厚生閣
- *COI:本記事に関連して開示すべき利益相反はない。
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