【第26回】
学校法人立命館・副総長/立命館大学総合心理学部教授 サトウタツヤ
ナチスドイツによる、公務員をアーリア人に限る法律は、心理学のみならず学問の世界の人的流動性を一気に高め、ドイツの凋落の一因となったはずです。捨てる神あれば拾う神あり、ではないですが、トルコはこうした状況を自国の発展に役立てようとしたようです。

トルコ─②
1915年にドイツからやってきたアンシュッツ(Georg Anschütz)の影響力は限定的でした(前号参照)。本当の意味でトルコの心理学を打ち立てたのは,トゥンク(Mustafa Sekip Tunc;1886–1985)です。彼は高校教師の在職中に国からヨーロッパ派遣のメンバーに選ばれました。当初はフランス文学史を学ぶはずでしたが,ジャン・ジャック・ルソー研究所(仏:Institut Jean-Jacques Rousseau)を見学したことで教育学と心理学に関心を移しました。その後,ジュネーブ大学で心理学を学び,帰国後は,高等女子教員養成学校で教育学と心理学を担当することになり,次いで,オスマン帝国大学に着任し(1919),心理学および教育学の研究と教育を行いました。

トルコ共和国の成立後(1923)首都・アンカラには教員養成のための機関(ガジ研究所;後にアンカラ大学教育学部となる)が設置され,そこでは教育心理学,発達心理学,テストと測定,といった内容が扱われました。この機関には社会的規範の研究で有名になるシェリフ(Muzafer Sherif;1906–1988)が助教として採用され,実験室を設立することになります。彼はそこで社会的規範に関する研究を始めます。彼はその後,政治的な理由によりトルコから国外(アメリカ)に逃亡を余儀なくされますが,このことについては次号で扱います。
また,1933年にドイツでヒトラーによる国家社会主義(ナチス)政権が成立すると,公務員をアーリア人に限るという法律が作られ,ユダヤ系ドイツ人は大学教員の地位に留まることができなくなりました。この時,トルコ共和国政府は職を失った彼らをトルコ人よりも高給でイスタンブール大学に招聘しました(Russell, 2016)。心理学の分野では,イエナ大学で最初に実験心理学の教授となったピータース(Wilhelm Peters)がイエナ大学からイギリスを経由してトルコに逃れてきました。なお,トルコの政策は自国のトルコ人教員の解雇も行っており,そこまでして優秀な学者を招聘したことの光と影について理解する必要があります。

ピータースはワイマール期のドイツにおいては教育心理学,発達心理学,知能検査などについて豊富な業績を持ち,イエナ大学で最初の心理学教授となった人でしたが,イギリスにおいては不遇でした。イギリス心理学会の会員にはなったとはいえ,イギリス国内の教員ポストの少なさから,定職に就く望みは持てませんでした。精神病院の参与観察のようなプロジェクトに属しながら固定した住所を持てずにいたようです。そして最終的にはドイツで待機を命じられるような状況に陥りました。そこに届いたのがトルコのイスタンブール大学の実験心理学講座の教授職でした。そこで彼は(近代心理学のメルクマールである)実験室を備えた実験心理学研究所をイスタンブール大学に創設しただけではなく,トルコの心理学会および学術誌の立ち上げにも尽力しました。彼は82歳までの16年間,トルコで心理学の礎を築き上げました。
ピータースを支えたトルコ人の心理学者にトゥルハン(Muemtaz Turhan)がいます。彼はドイツ・フランクフルト大学のメツガーの元で実験心理学とゲシュタルト理論を学び,ついでイギリス・ケンブリッジ大学のバートレットのもとで博士号を授与されました(1944)。ピータースが引退したあとは研究所の主任を引き継ぎました。
文献
- Gulerce, A. (2006) History of Psychology in Turkey as a Sign of Diverse Modernization and Global Psychologization. In A. Brock, (Ed.), Internationalizing the History of Psychology (pp.75-93). New York University Press. /Russell, G. (2016) J Hist Neurosci, 25, 320–347. https://doi.org/10.1080/0964704X.2016.1175201
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