【特集】
「心の専門家」とは何か

山崎 孝明(やまざき たかあき)
Profile─山崎 孝明
1985年生まれ。2019年,上智大学博士後期課程総合人間科学研究科心理学専攻修了。心理学(博士)。著書に『当事者と専門家:心理臨床学を更新する』『精神分析の歩き方』(ともに単著,金剛出版),『週1回精神分析的サイコセラピー』(共編著,遠見書房),『POSTを描く』(編著,日本評論社)など。
本誌から執筆依頼が来るとは夢にも思っていなかった。
もちろん,本誌の存在は知っている。だが,今回日本心理学会の本誌の表紙が並んでいるHPを見て,驚いた。私の知っている『心理学ワールド』は,こんなにスタイリッシュな表紙ではなかったはずだ。ページをスクロールしていくと,そこには私の記憶の中にあった,基本白背景の,飾り気のない表紙たちが並んでいた。2010年に発行された50号までが以前に私の見た表紙で,それ以降は現在のようなスタイルになっていることを知った。つまり,私は少なくとも15年間,本誌を目にしていなかった。
ざっと過去の号を眺めてみても,執筆者のなかでお名前を存じ上げている方は,多く見積もって2割ほどだった。失礼な物言いに聞こえたら申し訳ないのだが,私はこの事実こそが,わが国の心理学界を象徴していると思うがゆえに,あえて述べた。逆に言えば,本誌の読者も,私のことを知っているのは1~2割ではないだろうか(正直に言えば,もっと少ないだろうと思っている)。
なので簡単に自己紹介をするのだが,私は2010年に上智大学心理学科の修士を修了し,その後一貫して在野で仕事をしつつ,論文を書いたり,書籍を出版したりしている,精神分析を専門とする臨床心理士・公認心理師である。昨年からは心理臨床学会の業務執行理事も務めている。今年40歳になる。
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人によっては対立の存在自体を否定するが,この国の心理学界の歴史を見れば,いわゆる「基礎系」と「臨床系」の対立があったこと,そしてそれが資格をめぐって悪化したことは,私の目には明らかに見える。より正確に言えば,「臨床系」のなかにも実証性や普遍性を大事にする立場と,個別性や一回性を重視する立場があって,前者は「基礎系」と親和性が高く,後者(時に,「心理臨床学」と呼ばれる)は低い,という構図だろう。そしてその構図は,公認心理師という資格と臨床心理士という資格に象徴されている,と私は見ている。
だからこそ,私に依頼が来るとは思っていなかったのだ。先ほども述べたように,なにせ私は心理臨床学会の業務執行理事である。言ってみれば,「敵」陣営のはずだ。
たしかに私は,どちらかを選ばなければならないのであれば,個別性や一回性を重視する。その意味で,本誌の読者の多くと考えを違えているかもしれない。でも同時に,(当然のことだが)普遍性や実証性もたいへん重要なことだし,二者択一の対立構造になること自体がおかしなことだとも思っている。人間はそんなに単純な構造をしていない。一つの原理で説明できない。矛盾することもある複数の原理を組み合わせなければ描写できない。私の人間観は,そういうものだ。
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「心の専門家」とは何か,というお題に応じるのであれば,求められる条件の一つは,上記の「人間は共通する部分も多いが,共通しない部分もあって,後者を理解するのは非常に難しい」と知っていることだろうと思う。基礎系/臨床系だろうと,実証性/個別性だろうとなんでもいいのだが,もっとも重要なのは,事前に十分な知識を蓄えたうえで,かつ目の前のできごと(実験や調査であれば得られたデータだろうし,臨床であればクライアントの反応だろう)がそれに反していた場合には,それがなぜなのかを考えられることだろう。
だから私が思うに,真の対立軸は「未知に開かれているか否か」にある。もちろん,みなさん「自分は開かれている」と思われるだろう。私もそうだ。だがそれは,実際にはそう簡単なことではない。
「精神分析は宗教だ」と言う人がいる。私はそう言われることに抵抗がない。それは私が宗教という言葉に悪印象を持っていないからだ。だが,わざわざそのように言う人は,それを悪口として言っていることがほとんどである。逆から言えば,宗教を悪しきものだと思っているからこそ,精神分析を宗教に擬えることが悪口として機能するのだと思っているということになる。
たしかに,精神分析は悪しき宗教=カルトとなることがある。私自身,『精神分析の歩き方』という書籍の中で,その問題を検証し,その可能性は排除できないと結論している。だが同書では同時に,「科学」信仰もまたカルトになりえることも指摘している。問題は信仰の内容ではなく,信仰の強度なのだ。強すぎる信仰は,未知への扉を閉ざす。
この点で精神分析はある種優位な立場に置かれている。というのも,アイゼンクの精神分析批判はあまりにも有名だが(そしてそのアイゼンクの研究不正が近年明らかになったのはあまりにも人間的な事態であると思うが),爾来半世紀にわたって精神分析は批判され続けてきたからだ。当然,何を批判されるかもわかってきているし,それへの反論も洗練されてきている。何より,「批判される」ということ自体に慣れている。批判されることは織り込み済みで,むしろそこからスタートだ,とすら思っている節がある。
一方,いわゆる「科学的」な立場に立つ人が批判され,それに幼稚な反応をしている姿を見ることは案外少なくない。とたんに非合理的になったり,語勢で乗り切ろうとしたりし始めてしまうのだ。論理的思考とエビデンスはどこに行ってしまったのかと思う。精神分析に加える批判が,そのままブーメランとして突き刺さっているように見える。そうして思う。「批判され慣れてないんだなぁ」と。
もちろん内部では批判的検討がたくさんなされているのだと思う。だが,外部からされる批判,文化を共有していない人からされる批判は質が異なる。前提からひっくり返されるのだ。
昨今「対話」という語が安易に用いられているように感じることが少なくない。異質な文化の人と「対話」するというのは,そのような批判にさらされることなのだ。だがその先にしか相互理解はない。そして,その難しい相互理解に努められることが,「心の専門家」に求められる条件だと思う。
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本特集の責任編集を務めている東海林渉氏は,あえてラベリングするなら「基礎系」に親和性が高い方だろう。にもかかわらず,「基礎系」と「臨床系」を架橋するために,あえて私に声をかけてくれたのだと思う。
私は,架橋をできなかった上の世代の非難をしたいわけではない。二つの資格が成立する過程で,信念と信念をぶつけ合わせることはぜひとも必要だったはずだ,と思っているからだ。ただその結果,感情的なしこりが残り,それは解消できないレベルに至っているように思う。それは当然のことだろう。みな,傷ついておられるはずだ。
私と東海林氏は同年代である。臨床心理士資格も公認心理師資格も成立には関わっておらず,その恩恵だけを受けている世代だ。だからこそ,血で血を洗うような激しい戦いをしておらず,信仰を違えていても,協力できる可能性を持つ世代だと言ってもよいだろう。私たちに与えられた課題は,「真にクライアントの役に立つために手を携えること」である。まず内部で協力できなければ,政治的に力を持つこともできず,いつまでたっても心理職は薄給の弱小資格のままだろう。そうなれば,優秀な人材は流出していき,結果としてエンドユーザーたるクライアントに不利益がもたらされることとなる。
もちろん,世代に関係なく協力できればそれに越したことはない。だが,人間は合理性だけで生きていない。それが「臨床系」の私の考えだ。だから,多くは望まない。本誌にこうして書く場を与えてくれたことが,何よりの「協力」だと思っている。感謝して筆を擱くこととする。
文献
- *COI:本記事に関連して開示すべき利益相反はない。
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