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【小特集】
自己トラッキングによる健康管理の倫理─生活に直結するビッグデータ利用を考える

玉手 慎太郎(たまて しんたろう)
Profile─玉手 慎太郎
東北大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。2021年より現職。専門は倫理学・政治哲学。単著に『公衆衛生の倫理学』(筑摩選書),『ジョン・ロールズ』(講談社現代新書)など。
はじめに
人間にとって,自分自身のことを知ることはとても難しい。私たちは朝,鏡を見てはじめて寝癖に気づく。スニーカーの靴底のすり減り方を見てはじめて歩き方が歪んでいることに気づく。筆者は自分の講義の録画を見てはじめて,自分がいかに早口でしゃべっているのかを知り,たいへん驚いたことがある。
しかしながら,自分自身のことを知ることは不可能だというわけではない。上に挙げた例にもあるように,「道具」を用いることで,私たちは自分自身のことを詳しく知ることができる。そのような道具の中でも最新の,そして実に強力な道具が,日々身につけて身体情報を収集する「ウェアラブルデバイス」である。特に近年ひろく使用されるようになったリスト型(腕時計型)のウェアラブルデバイスは,毎日の睡眠時間、運動時間,心拍数など,さまざまな情報を計測・記録してくれる。
このように日々の生活のデータを,デジタル技術を通じて詳細に記録・管理していく営みは,「自己トラッキング」と呼ばれ議論されている[1]。自己トラッキングの目的にはさまざまなものがあり得るが,人々の健康の向上はその主たる目的の一つである。ウェアラブルデバイスの健康管理への利用[2],また医学研究への応用について[3],すでに議論が重ねられている。
ウェアラブルデバイスの一つの重要なポイントは,それが個人利用にとどまるものではないということである。デバイスを通じて獲得された各人のライフログは,広範に収集されて「ビッグデータ」を形成する。すなわちウェアラブルデバイスの背後には,多数の人々の生活に関する情報を総合的に処理することで,より的確な健康アドバイスが生み出されるという仕組みがあるのである。本稿では自己トラッキングという営みについて,倫理学の観点から考察を加えてみたい。
自己トラッキングの曖昧さ
自分の睡眠時間や運動時間が「適切な水準」を満たしているかどうかを気にかけ,もし足りていなかった場合には睡眠時間や運動時間を増やすなどの生活改善を行う─このような自己トラッキングを用いた健康管理は,よく検討してみると、当人の自律性(自分の生活を自分の意思でコントロールできること)と齟齬をきたす可能性がある[4]。具体的には以下の4つの曖昧さを指摘できる。
①曖昧な基準:上に述べたように,自己トラッキングにおける健康管理には「適切な水準」という参照点が必要である。自分の日々の活動を単に記録しただけでは,どう改善したらよいかはわからない。しかし,しばしば指摘されるように,ビッグデータを通じて形成された基準はその背景や論拠が時にブラックボックス化されてしまう。自己トラッキングをする私たちは,自分では十分に理解も納得もしていない基準に従っているのかもしれない。
②曖昧な自己選択:私たちが自己トラッキングを行うのは,自分自身で健康になりたいと願ったから,というわけでは必ずしもない。いかなる理由からウェアラブルデバイスを装着しても,健康管理のアプリは目的と無関係に作動する。たとえばランニング中にスマホの通知を確認したいという目的で使用し始めた人は,意図せぬ形で健康をめぐる情報を通知される。そのような情報を無視することは心理的に難しいかもしれない。
③曖昧な帰結:自己トラッキングによって健康のために行動を改善するにしても、そもそも日々の健康の改善は簡単に目に見えるものではない。怪我や疾患の「治療」と異なり,日々の「予防」には明確な成果がないからである。言い換えれば,予防の取り組みには終わりがない。ウェアラブルデバイスを通じて私たちは,決して確定しない健康を目指して,終わりなき自己管理を求められてしまうのかもしれない。
④曖昧な責任:もし以上のようなことに疑問をもつなら,ただ通知を無視すればよいのだろうか。話はそう簡単ではない。なぜなら,知っているのにそれに従わなかった,ということが「自己責任」として追求されうるからである。数値の悪化や具体的な疾患という形で不健康が見て取れた時,私たちは「だからちゃんと健康管理しておけばよかったんだ,自分の責任じゃないか」という論理に引っ張られてしまう。その結果,当人に不健康の責任を負わせ,道徳的に非難する言説が広がってしまうかもしれない。そしていずれは,自己トラッキングをしないことそれ自体が無責任だとみなされる時が来るかもしれない。
自己トラッキングしてみた
さて,筆者はこの原稿を執筆するにあたって,百聞は一見にしかず,というほどのことでもないが,実際にリスト型のウェアラブルデバイスを購入し,2か月ほど使用してみた。購入したのは7000円程度の比較的安価なものであるが,それでも毎日の睡眠時間・運動時間・心拍数・歩数を問題なく記録することができた。適切な記録のために,お風呂にはいる時間を除いて一日中ずっと装着した。計測されたデータは連動するスマホアプリで詳細に確認できるようになっており便利であった。
使用していてなにより目を引いたのは,毎日の睡眠時間の「点数」だ。前夜の睡眠のクオリティを示す数字が,時刻表示のすぐ下に常に表示される。たとえばこの文章を書いているいま,昨夜の睡眠は69点だったと表示されている。直感的に,もう少し点数を上げたいと感じる。それが健康のためだろう。
しかし,この数字が何を意味しているのかは,考えてみるとよくわからない。数字の背後にはおそらくビッグデータがある。スマホで確認するならば,この睡眠が「平均未満」であり,「16%の他のユーザーより優秀です」と表示されている。このことから,他の多数の利用者の睡眠データとの照らし合わせが行われていることが見て取れる。だが他のユーザーとの比較による平均値というのは,強固なエビデンスであるようで,健康にとって科学的に根拠のある数字ではないだろう。このデバイスの健康管理の指針は,一見してそう思われるほど明瞭ではないように思われる。
加えて興味深いのが,「情緒モニタリング」という機能である。これは日々のストレスの値を継続的に記録するものであり,ストレス値が高くなると深呼吸を促すような表示が出るのだという(筆者はまだその表示にでくわしていない)。ストレスという,自分ではなかなか把握できない要素について確認できるのは,健康のためにありがたいことかもしれない。
しかし気になるのは,ここでもまた何が計測されているのかが不明瞭なことである。ストレス値とは何のことなのだろう。アプリで詳細を確認してみると,自律神経系の動きを測っているのだと説明されているのみで,具体的に何をどう計測しているのかはわからなかった。求められる対処が深呼吸といった素朴なものであることもその不思議さを際立たせている。
うがった見方かもしれないが,その効果はむしろこれから明らかになるのかもしれない。というのもこのデバイスの利用者はみな,自己の自律神経系の(何かしらの)データを開発者に毎日フィードバックしているからである。そこから形成されるビッグデータを,企業側が今後の商品開発に利用することは間違いないだろう。
最後に補足的な点を一つ指摘したい。ウェアラブルデバイスを用いた自己トラッキングの目的の一つに,女性の月経周期の把握と記録がある[5]。それによって避妊あるいは妊活の実効性が高まると期待できるのであり,筆者の使用したウェアラブルデバイスにも「生理周期カレンダー」という機能がある。男性である筆者にはその使用感を理解することはできないが、自己トラッキングが生殖をめぐる決定にまでビッグデータを通じて干渉するものとなりうることは,軽視できない論点だと考えられる。
おわりに
ビッグデータの使用が今後いっそう広まっていくならば,健康のための自己トラッキングも同様に拡大していくと予想される(最近ではより小型化した指輪型のデバイスも販売されている)。そのような私たちの生活に直結するビッグデータ利用について倫理的に検討しておくことは,一定の慎重さをもってビッグデータを使いこなすために必要なことである。その検討は,曖昧さの中で知らず知らずのうちに望まない技術に絡め取られないための,手がかりを与えてくれるだろう。
道具を用いることで,私たちは自分自身のことを知ることができる。しかし自分自身のことを本当に知ろうとするならば,私たちが道具をどう用いているのかを知ることもまた大事なのだ。
文献
- 1.美馬達哉(2021)保健医療社会学論集, 32(1), 23–33.
- 2.吉井英博(2021)大阪千代田短期大学紀要, 50, 66–73.
- 3.天笠志保他(2021)日本公衆衛生雑誌, 68(9), 585–596.
- 4.玉手慎太郎(2022)公衆衛生の倫理学:国家は健康にどこまで介入すべきか.筑摩書房
- 5.佐々木香織(2024)デジタル化と社会防衛:医療・健康・身体情報の利活用と生政治,規律権力,そしてジェンダー・ポリティクス.美馬達哉責任編集,社会防衛と自由の哲学(未来世界を哲学する 第8巻)(pp.131–173).丸善出版
- *COI:本記事に関連して開示すべき利益相反はない。
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