【第10回】
サトウタツヤ
立命館大学総合心理学部教授。アルゼンチンといえばスペインを旧宗主国とする国で今でもスペイン語が公用語になっており,さぞやスペインの影響が強いと誤解していました。むしろ旧宗主国の影響をそぐために多くの知識人たちがフランスとの知的交流を深めながら近代国家を作り上げていたようなのです。
アルゼンチン
フランス革命の影響は大西洋をこえて,まず北アメリカ,ついで南アメリカに波及しまた。そして19世紀には,ポルトガルとスペインの支配下にあった国々が次々と独立しました。アルゼンチンもこうした形で独立し大学制度や心理学も発展したのですが,知識人や医学者・医師の活動が他国と比べてもフランスと強く結びついていました。心理学においてもドイツのヴント『生理学的心理学綱要』(1874)は,フランス語訳によってアルゼンチンに知られるようになったと言われています。
アルゼンチンで近代心理学を導入したのは,ピニェーロ(Horacio Piñero; 1869–1919)でした。
彼は医科大学で学び,病院医師を経て国家大学(Colegio Nacional)教授となりました。1896年にはヨーロッパに渡り,パスツール研究所(生理学と細菌学のメッカ)で学びました。彼は1899年から国立大学で心理学を教え始め2年後にはブエノスアイレス大学の哲学・文学部の教授に就任し,国内初の実験心理学の授業を開始しました。彼は心理学実験室(南米で2番目)を作り,ヴントとジェームズの実験法の研究と教育を専門にしました。彼は,(1)ドイツのヴントによる心理学実験室設立,(2)フランスのシャルコーによるヒステリーと催眠術に関する研究の始まり,(3)フランスのリボによる『哲学雑誌』の創刊が心理学における重要な出来事だと捉えていました。
なお,当時のアルゼンチンではフランスのベルナール(Bernard, C.)『実験医学研究序説』に大きな影響を受けていました。観察や経験に基づくのみでなく実験を行って疾病と治療のメカニズムを理解する,そのことで臨床医学を充実させるという考え方です(日本でベルナールを翻訳したのが慶應義塾大学医学部の三浦岱栄(みうらたいえい)であり彼が力動精神医学にも関心を持っていたことと通じるものがあります)。
そしてピニェーロはブエノスアイレス心理学協会を設立し(1908)初代会長に就任しました(この会は1914年頃消滅)。
この協会を一緒に作ったのがインゲニエロス(Jose Ingenieros; 1877–1925)です。彼もまた医師であり1906年にブエノスアイレス大学の心理学講座の教授に任命されました。そして,1906年に心理学第二講座教授となったのがドイツ人でヴントの弟子であるクリューガー(Felix Krueger; 1874–1948)でした。
彼が持ち込もうとした実験心理学や民族心理学(今の文化心理学)は,フランスの心理学に影響されたアルゼンチンの心理学には相性が悪かったようです。彼がヴントにあてた手紙の分析によれば(Taiana, 2005),アルゼンチンの心理学はフランス流の実験医学的・臨床医学的な心理学であり,ヴントが苦労して独立させた感覚についての心理学とはほど遠いものであり,哲学的な議論(認識論や哲学史)などについても理解が得られなかったとのことでした。クリューガーは翌1907年にアルゼンチン出国を余儀なくされていますが,後にヴントの後任としてライプツィヒ大学教授に任じられました。
文献
- Taiana, C. (2005). Conceptual resistance in the disciplines of the mind: The Leipzig–Buenos Aires connection at the beginning of the 20th century. History of Psychology, 8, 383–402.
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