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時差2時間の縦軸移動のライフスタイル
平松 隆円(ひらまつ りゅうえん)
Profile─平松 隆円
世界でも類をみない化粧研究で博士(教育学)の学位を取得。専門は化粧心理学・化粧文化論。国際日本文化研究センター機関研究員(講師),京都大学中核機関研究員,タイ国立チュラロンコーン大学専任講師などを経て2016年より現職。単著に『黒髪と美の歴史』(KADOKAWA),『邪推する よそおい』(繊研新聞社)など。
2012年8月の最終週,知人から「タイって興味がある?」とメールが届きました。興味があるもなにも,テレビのバラエティ番組で見る印象しかありません。曖昧な返事をしていると,次の週には「10月と来年4月ならいつから働ける?」とメールが。そう,就職のオファーです。たしかに,仕事を探していたものの,まさか海外で働くとは。断ることもできたはずなのに,気がついたら半年後にバンコクの大学で教員として働くことが決まっていました。人生って,なにが起こるかわかりません。とはいえ,不安なことでいっぱいです。バンコクに行くまでのあいだ,はじめて会うひとにすら「バンコクで働くことになっているんですが大丈夫でしょうか?」と相談していました。下見してイヤになったらどうしようと,一度も事前に行かずに,はじめて足を踏み入れたときから生活がはじまりました。
バンコクについた翌日から生活を整えることと授業準備などが同時進行です。しばらくは大学の寮に住むことができますが,自分のコンドミニアムを探したり,銀行口座を開設したりと大変でした。
バンコクでの主な仕事は,大学院生の研究指導です。ですが,日本文学や学部生の日本語の授業も担当しました。ボクの専門は,化粧心理や化粧文化。日本では社会心理学や人間関係論などの授業のなかで,化粧心理を教えていました。いくらなんでも,日本文学や日本語のなかで化粧心理は教えられません。国文学部の学生になったつもりで,イチから勉強です。
しばらくすると生活や授業には慣れるものの,コンドミニアムと大学の往復だけの生活は,さみしくなります。バンコクは幸いにも世界中から駐在員が集まる街です。これではダメだと,欧米人やタイ人が集まるネットワークイベントに顔をだし,知り合いを増やしていくようにしました。知り合いができると,週末一緒に遊びに行くような友達ができ,生活は充実していきます。ひとによっては,友達なんか作らなくても研究すればいいじゃないかと考えるかもしれません。ですが,ひととの交流のなかでこそ,やはり発見があります。よく,民俗学者が一升瓶片手に農村に調査に出掛けるといいますが,友達とお酒を飲みながら話すことで文献調査ではわからない文化や風俗を学ぶことができます。質問紙調査の性別欄で,「男性/女性」以外に「その他」も必要なこと,「その他」を設けても現実は自分が考える「男性/女性」を選ぶか無回答が多いことなども,LGBTQ+が日本で注目される以前にバンコクで知ることができました。
バンコクで働き始めたものの,日本での非常勤講師の仕事は集中講義にしてもらい,タイの学期休みを利用して日本に戻り,授業をしていました。バンコクと東京はおよそ6時間のフライトです。夜行バスで東京から大阪に行くのと同じです。いまの日本の大学で専任の仕事を見つけることは,簡単ではありません。ですが,タイを含めて日本人の教員を求めている海外の大学はけっこうあります。海外で働くというと,すべてを投げ捨てるくらいの覚悟が必要な気がします。ですが,移動時間的に考えれば,東京から大阪の距離。日本で非常勤講師の仕事を続けながらだって働けるんです。バンコクで暮らしていると,時差2時間程度の移動は日常的なことです。週末に,ちょっとシンガポールにご飯に行こうとか,香港で友達のバースデーパーティをすることはよくありました。ミャンマーやカンボジア,マレーシアは日帰り出張です。それくらいの距離は生活圏なんです。
海外の大学で働くってそんなにオオゴトではないんです。ちなみに,ボクはいま日本の大学で働いていますが,いまでもバンコクにコンドミニアムを借りていて,生活の拠点があります。バラエティ番組で見る印象しかなく,不安のカタマリだったタイが,生活する場所の一部になっています。
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