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【特集】

チンパンジーの絵から 芸術の起源を考える

さいとう あや
京都造形芸術大学文明哲学研究所 准教授

さいとう あや(さいとう あや)

Profile─さいとう あや
京都大学理学部卒業。同大学院医学研究科修士課程修了。東京藝術大学大学院博士後期課程修了。博士(美術)。日本学術振興会特別研究員,京都大学野生動物研究センター特任助教,中部学院大学准教授等を経て現職。専門は芸術認知科学。『ヒトはなぜ絵を描くのか:芸術認知科学への招待』(岩波書店),『人間とは何か:チンパンジー研究から見えてきたこと』(分担執筆,岩波書店),『脳とアート:感覚と表現の脳科学』(分担執筆,医学書院)など。

チンパンジーの絵と子どもの絵

チンパンジーのアイの絵
パンの絵

図1 チンパンジーのアイの絵(左)とパンの絵(右)では画風が違う(齋藤, 2014)

図2 パルが絵を描く様子
図2 パルが絵を描く様子(撮影:野上悦子)

アイの絵とパンの絵を見まちがえることはない。くねくねの曲線で画面全体を埋めつくすアイと,短い線を丁寧に並べて色ごとにぬりわけるパンとでは,画風が全然違うからだ(図1)。チンパンジーの絵の話である。

チンパンジーなどの大型類人猿は,筆記具を扱って絵を描くことができる。ペンを与えると,子どもがはじめてペンを手にするときのように,最初はペンを口にいれたり,ふりまわしたりする。でもあれこれ試すうちに紙とペンの対応づけを体得し,紙の上にペン先をつけて水平に動かし,線を描けるようになる。描き方に個性があるということは,まるっきりでたらめでもなく,それぞれ描線をコントロールして描いているようだ。

絵を描く心の基盤とはなにか。芸術する心はなぜ生まれたのか。系統発生と個体発生,つまり進化と発達という二つの視点からアプローチしている。進化の隣人であるチンパンジーと人間の子どもの絵の研究をはじめたのは,東京藝術大学の大学院にいたころ。京都大学霊長類研究所の共同利用研究制度を利用して,林美里さん(京都大学霊長類研究所),松沢哲郎先生(現・京大高等研究院),竹下秀子先生(現・追手門学院大学)とおこなった研究だ(図2)。

人間の場合,偶発的ななぐりがきにはじまって,少しずつ描線をコントロールできるようになり,平均3歳で顔などの表象(なにかを表した絵)を描くようになる。しかしチンパンジーは,描線をコントロールして個性のある抽象画のような絵を描くのに,表象は描かない。

そこで,チンパンジーがなぜ表象を描かないのかに着目して,こんな実験をおこなった。チンパンジーの顔の線画から,目などのパーツを段階的に消しておいて,そこにらくがきをしてもらったのだ。はたしてチンパンジーは,足り「ない」目を補って描くのだろうか。

6人のチンパンジーに試してもらったが,かれらが「ない」目を補うことは一度もなかった。その代わり,顔全体にしるしをつけたり,描かれて「ある」方の目をぬりつぶしたり,顔の輪郭線をなぞったりした。

人間の場合,2歳後半以上の子は,「あ,おめめ,ない」などといって,自発的に「ない」目を補った(図3)。でも,それより小さい子どもたちは,描かれていない目はスルーして,チンパンジーと同じように,顔全体にしるしづけしたり,描かれて「ある」目をぬりつぶしたりしたのだ。

今ここに「ない」ものを想像するという認知的な特性の発達が,表象を描くことに関わっている。そんなことがみえてきた。

チンパンジーは,描かれて「ある」部位をなぞり(左),人間の3 歳児 は「ない」部位をおぎなった(右)
チンパンジーは,描かれて「ある」部位をなぞり(左),人間の3 歳児 は「ない」部位をおぎなった(右)

図3 チンパンジーは,描かれて「ある」部位をなぞり(左),人間の3 歳児 は「ない」部位をおぎなった(右)(Saito, et al., 2014)

言葉と想像力

人間の子どもに描画模倣課題(単純な図形を模倣して描く課題)をしていたとき,こんなことがよくあった。先に二本の縦線を描いてみせると,そこに横線を何本も交差させて,「せんろ」という。円を描いてみせると,なかに小さな円をいくつか描きいれて,「アンパンマン」という。白紙の上には,なぐりがきをしている子でも,先にちょっとした線や図形を示すと,表象を描きやすいようだ。手がかりにモノの形を見立てて,足りない部分をつけ足して描くのだ。

2歳後半のこの時期は,子どもの語彙が爆発的に増える時期でもある。言葉の体系が整ってくることと,この見立ての想像力の発達に関連がありそうだ。

わたしたちは,空の雲のようなあいまいな形にも,さまざまなモノを見立てる。言葉をもった人間は,目に入るモノをつねに言葉でラベルづけして見ているといわれる。

ラベルづけをするメリットは,ほかの人に伝えやすいということだ。実感したのは,チンパンジーの絵にタイトルをつけてみたときのこと。アイの描いた絵が「カラス」に見えて,色合いから「夕暮れのカラス」と名づけた。そうしたら,あとで思い出したり,他の人にも伝えたりしやすくなったのだ。これが,「何年何月何日に描いたアイの赤と黒と黄色の絵」だったら,すぐには思い出せないし,人にも伝えにくい。

旧石器時代の洞窟壁画にも,見立ての想像力を駆使した絵がたくさん見つかる。たとえばスペインのアルタミラにも,岩の凹凸一つひとつをバイソンに見立てて描かれた絵がある。よく見ると,岩の亀裂を輪郭線の一部に見立てた箇所も少なくない。

人間は言葉を手に入れたことで,見立ての想像力を手に入れた。それこそが,絵を描く心の基盤の一つであり,芸術の起源における大事なカギなのではないかと考えている。

見立てと概念

その「見立て」について,もう少し考えてみたい。たとえば壁のしみに顔を見つけるとき,わたしたちは,ここが目で,ここが鼻で,ここが口,というように,しみを部分ごとに顔のパーツと関連づけて見ている。

顔というのは,土台があって,そのなかに目が二つあって,鼻があって,口がある。モノの概念,つまり「表象スキーマ」にあてはめて見ているのだ。

子どもの絵は,ちょうどその表象スキーマを表したものだ。見たモノを描いているのではなく,知っているモノを描いている。ただの丸を目,目,口,と組み合わせるだけで顔になる,とても記号的な絵だ。そこに,鼻がくわわり,耳がくわわり,女の子ならリボンが,パパならおひげがくわわる。発達にともなって概念的な理解が進むと,描かれる要素もだんだん増えてくる。

 頭足人が生まれる理由もその延長にありそうだ。子どもがよく描く,顔に直接手足が生えた人物画だ。人物のスキーマとして,手足のようなわかりやすい概念の要素はすぐに描かれるが,胴体のようなむずかしい概念の要素は,くわわるのが遅いのだろう。

子どもたちは,ほかにもさかさまの絵などの不思議な絵を描く。それらもやはり概念の発達と関係していると考えている。

描くことのおもしろさ

さて,チンパンジーの絵の話をしていると,ゾウの絵のことを聞かれることがある。テレビやインターネットで,ゾウが,花や木,自画ゾウまで描いているのを見た。表象を描かないチンパンジーよりも,ゾウの方が賢いのでしょうかと。

あのゾウたちは,じつは隣にいるゾウつかいの指示にしたがって描いているのだそうだ。ゾウつかいがゾウの耳を軽くひっぱるなどして,一筆一筆指示を与えている。ゾウが指示どおりに細かく筆をコントロールできるのはすごい。でもゾウつかいがゾウをつかって描いた絵というべきだろう。ゾウが自由に描くときには,やはりなぐりがきのような,抽象画のような絵を描くようだ。

チンパンジーには,芸として描かせているわけではない。食べ物による報酬がなくても,筆記具を渡すと絵を描く。絵を描くという行為自体に報酬性があるということだ。絵筆を扱って,紙の上にさまざまな痕跡がのこるのを楽しんでいるようにみえる。

なぐりがきをはじめたばかりの子どもも同じだ。ペンが紙にあたって小さなしるしが残るだけで,子どもは,あ,とうれしそうに声をあげる。自分が筆記具を動かすと,それが目に見える軌跡として現れる。いわば自分が世界を変容させる感覚をおもしろがっているのだろう。

人間の場合,そのおもしろさはやがて,描線にモノのイメージを見立て,紙の上にモノを生み出す喜びに変わる。子どもが描くとき,まわりには,おとなやきょうだいがいて,イメージを他者に伝え,共有できる喜びもくわわる。実在しないオバケなど,自分の頭のなかだけにあるイメージさえ,可視化して他者に伝えることができるのだ。子どもが絵を描くときには,絵を介した言葉のやりとりも頻繁におこなわれる。

つまり,描く過程のおもしろさから,描いた結果としての絵のおもしろさへ,そして,私的なおもしろさから,社会的なおもしろさへと変わっていく。

チンパンジーやなぐりがき期の子どもたちが,描く過程を私的に楽しむのは,感覚運動的な遊びに通じるものだ。

チンパンジーが道具使用をすることは知られている。野生でも,石で木の実を割って中身を取り出して食べたり,木の棒で巣のなかのアリを釣って食べたりする。そのほとんどが,特別な食べ物を手に入れるとか,食べ物を効率よく手に入れるなどの目的のある道具使用だ。

しかし,飼育下のチンパンジーたちを見ていると,かれらが目的なくモノを扱うことがよくある。たとえば長靴を置いておくと,長靴をくにゃくにゃたわませてみたり,手を中につっこんでみたり,足に履いて歩いてみたり,木の棒を出し入れしてみたりする。モノに興味を持ち,明確な目的を持たずに,いろいろな行為を試し,新たな行為の可能性を見つける。探索と発見をおもしろがっているようにみえる。そしてそれを「おもしろい」と感じるからこそ,道具としての使用方法を見つけることができるのだろう。

おとなになると絵が苦手になるわけ

描くことは本来おもしろい。でも小さいころはおえかきが好きだったのに,小学校,中学校,と年齢が上がるにつれて,絵が「苦手」になってしまう人が多い。「苦手」の理由を聞くと,上手に描けないからという人がほとんどだ。おそらく,上手下手という基準で絵を評価されてきたことに問題があるのだと思う。

子どもの絵をほめようとして,つい使ってしまうのも,「上手」という言葉ではないだろうか。評価は悪いことではないし,大きなモチベーションにもなる。でも,評価の基準がせまいことが問題だ。

たいてい「上手」と言われるのは,見たモノの形をより写実的にとらえた絵のことだ。でも,写実的な絵は,子どもが描くような記号的な絵の延長にはない。描こうとするものがまったく違うので,むずかしくてあたりまえなのだ。

先に述べたように,記号的な絵は,知っているモノを描く絵であり,頭のなかにある表象スキーマの要素を一つひとつ表すような絵だ。それはつまりモノの「認知(認識)」を表出している絵ともいえるだろう。それに対して写実的な絵では,光の配列などのモノが認知される前の視覚情報,つまり「知覚」を表出しようとしている。

デッサンなど,見たモノを写実的に描く練習は,概念にとらわれずに,知覚的にモノを見る重要なトレーニングなのだと思う。でも,写実を極めることが,芸術の本質ではない。美術教育の最終目標でもないはずだ。

では,子どもの絵をどう評価し,何を目指せばいいのか。「上手」の代わりに推したいのが,「おもしろい」だ。「上手」と違って,「おもしろい」に優劣はない。だれが見ても「おもしろい」という絶対的な評価もない。目のつけどころがおもしろい,アイデアがおもしろい,色の組み合わせがおもしろい。さまざまな視点からの評価ができる。

そもそも,モノの見え方やとらえ方は,人によって結構違う。それまでの経験が違えば,積みあげられてきたスキーマが異なるからだ。絵には,そうしたモノの見え方の違いが垣間みられる。そのおもしろさをひきだし,味わう姿勢が大事だと思う。

表現の生まれた背景

「おもしろい」を感じるのは,今まで持っていた自分の概念を広げたりくつがえしたりするような新しいものごとに出会うとき。いわゆるアハ体験とも通じる,発見の快だ。「見立て」がおもしろい理由もそこにある。

そして「おもしろい」こそ,芸術の本質の一つでもあるのだと思う。現代アートの山口晃さんは,「私がおもしろいとか,大切だとか思うものを誰もそう思わない。だからそう思えるよう表してやる,それが表現」だとおっしゃっていた。

アーティストは,これまでにない独自の切り口で世界のおもしろさを切り取ってみせてくれる。すぐれた作品に出会うと,既存の概念がこわされ,新たなモノの見え方に気づかされる。

アール・ブリュットが注目されているのも,既存の概念を飛びこえた「おもしろい」があふれているからだろう。日本では,障害者のアートという意味で使われるケースも多いが,本来,作者の障害の有無は関係ない。正規の美術教育を受けていない人が,既存のモードに影響を受けずに自発的に生み出した表現のことだ。まさに作家が自分独自の「おもしろい」を一心に追求した表現なのだと思う。

芸術の起源とは,「美しい」と感じる心の起源のことだと考える人が多いかもしれない。でも,鑑賞ではなく表現の視点からみたときにカギとなるのは,意外と「おもしろい」ではないかと思っている。

文献

  • Saito, A., Hayashi, M., Ueno, A. & Takeshita, H.(2011)Orientation-indifferent representation in children's drawings. Japanese Psychological Research, 53 , 379-390.
  • Saito, A., Hayashi, M., Takeshita, H. & MatsuzawaT . ( 2 0 1 4 )The origin of the drawing arts: A comparison of human children and chimpanzees. Child Development, 85 , 2232-2246.
  • 齋藤亜矢(2014)『ヒトはなぜ絵を描くのか:芸術認知科学への招待』岩波書店
  • 齋藤亜矢(2016)チンパンジーとアール・ブリュット.『図書』 806 , 22-26. 岩波書店

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