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【特集】
保育現場が心理学に期待すること
宮里 暁美(みやさと あけみ)
Profile─宮里 暁美
国公立幼稚園教諭,お茶の水女子大学附属幼稚園副園長,十文字学園女子大学幼児教育学科教授を経て,2016年4月より現職。文京区立お茶の水女子大学こども園園長,田園調布学園大学大学院非常勤講師を兼任。専門は保育学。著書は『子どもたちの四季:小さな子をもつあなたへ伝えたい大切なこと』(主婦の友社),『0-5歳児 子どもの「やりたい!」が発揮される保育環境』(監修,学研プラス),『子どもからはじまる保育の世界』(共著,北陽出版)など。
はじめに
「新しい出会い」には,いつも心惹かれる。今回,『保育領域と心理学領域の関係をさまざまなテーマから見つめ直し,互いに貢献できそうなことなどについて発展的に考察する』という企画による原稿依頼に対して興味をもち,「何を語ろう」という明確なイメージはないのにもかかわらず,原稿依頼をお引き受けしたのも,それが「新しい出会い」を連れてくるように思ったからだ。「新しい出会い」に心惹かれる,という思いは,私が現在,認定こども園の運営に関わっていることと関係がある。
認定こども園とは,幼稚園,保育園に次ぐ第三の乳幼児教育施設であり,幼稚園と保育園の機能を併せ持つ新しい可能性の追究だと私は考えている。
保育園と幼稚園は,乳幼児期の保育・教育を行うということにおいて共通だが,その成り立ちにおいては福祉と教育という違いがあった。管轄の省が違うことから,共通性よりも独自性のほうが強調されてきたように思う。そこに,子ども子育て支援新制度が導入され,保護者の就労の有無にかかわらず受けたい教育が受けられるシステムとして認定こども園が登場したことで,大きな変革が起こった。
幼稚園と保育園の共通性が強調され,合同の研究会や語り合いの場も増えてきている。翻って考えてみれば,保育園も幼稚園も乳幼児のよりよい育ちを支えているのであり,共通に考え合い,よりよい乳幼児教育の在り方を協力して確立していくことに何も迷いはないはずなのである。
心理学領域と保育領域の関係を,保育園と幼稚園の関係に置き換えるのは,乱暴なようにも思えるが,あえて置き換えて考えてみたい。心理学領域と保育領域は,人間(子ども)を相手にする,という意味では共通しているが,違いのほうが目立っているのだろうか? 現状はどうなのだろうか? 人間を相手にし,深い洞察に価値を置いていることに共通項があるが,一方で,違いも歴然としてあるように思う。
心理学領域は,心と行動の学問であり,科学的な手法によって研究され,そのアプローチとしては,行動主義のように行動や認知を客観的に観察しようとするものと,主観的な内面的な経験を理論的な基礎におくものとがあるとされている。
一方,保育領域は,「多面的・多層的ないとなみについて, 様々な角度からの学術的アプローチによって問いを立て検討していく,学際的な学問領域」1であり,学問領域としての歴史は心理学ほどに古くはない。保育者の実践知に軸足を置いた学問領域だと考える。
それぞれの領域にはそれぞれの価値と可能性がある。それを合わせていくことで新しい地平が見えてくるのだろうか。この企画の中で可能性が見えてくることを願ってやまない。可能性を探すため日々子どもの中にいて,そこから学んでいる私自身の体験や思いを語ることからスタートしようと思う。それは「わからない」という言葉がポイントとなっている体験である。
「わからない」という状況につきあうということ
保育という営みは,「わからない」という状況に向き合い,根気よくつきあうことの中にあると考える。私は2016年4月より,新設の認定こども園の園長をしているが,その園の開園間もない頃に,印象的な出来事があった。保護者会で保護者に見せる写真を探していて目に留まった,2歳の子どもが土を触っている1枚の写真(写真1)だった。
私は,この写真を見て,「土いじりって,2歳児も好きなのね」と感想を言った。それは何気ない一言だった。しかし,この一言に対して思いもかけない言葉が返ってきたのだ。
「そうじゃないのよ。ただの土いじりではない。この写真は,あこがれの人のまねをしているところなのよ」と。
私は驚いて聞き返した。「え?あこがれの人って何?」と。すると,次のような答えが返ってきた。
「この子たちはね,Sさんのまねをしてるんですよ」。その答えの意味を説明すると以下のようになる。
開園間もない園の園庭の植え込みには,笹竹がびっしりと生えていた。このままだと花も育たないということで,用務主事のSさんが熱心に笹竹抜きをしてくれていた。なかなか抜けない笹竹に対してひるまず挑むSさんの姿を一番見ていたのが,2歳児たちだった。子どもたちは,保育室の窓からよく見ていて,園庭に出るとSさんの周りに集まった。そして,いつしか「Sさんやる」と言ってシャベルを持ってくるようになったという。だから,土を触るという行為は,ただの土いじりではなく,Sさんになっているつもり,憧れの人のまねをしている姿だということだった。
1枚の写真をめぐって,よく見ていなければわからない子どもの状況を嬉々として語る先生たちの顔を見ながら,私はこのこども園に勤務できた喜びを感じていた。開園当初の忙しさの中で,保育を振り返る暇も無くよりよい保育を実現できないのではないか,と悲観していた私は,一枚の写真に写っている子どもの姿のわけを教えてもらい,目が覚める思いになった。そうか,そうだったのか,と。
子どもを見る,ということ
この出来事は私の心に深く残った。保育を振り返る時間が十分にとれないという中でも,しっかり子どもを見ていく姿勢さえあれば,子どもの心の願いが見えてくるということに気づかされたのだ。そして私の中に次の言葉が浮かんだ。
「子どもの行為のわけに気づく語り合いは,子どもをもっとよく見ようという思いへと向かわせる」。それは保育者に保育する喜びをもたらし,保育の質向上につながる重要な視点だと考えたのだ。
私は,この大切な思いを,園内で,また園外で講演を行う際にもよく口にした。しかし,ある時,気づいた。「子どもの行為のわけに気づく」では,適当とは言えない。「気づく」としてしまうと,わけを解明することが目的になってしまう恐れがある。しかし,「わけ」は,そう簡単にわからないだろう。いろいろな理解の可能性は出たとしても,一つにはなかなか決められない。一つに決めることにそれほどの意味もないのではないか,そうも思えてきた。
そうなると,「気づく」よりも「考えようとする」「わかろうとする」という方向性の言葉がより望ましいように思えてきた。
「気づく」や「わかる」ではなく,こうか,ああか,と「考える」こと,「わかろうとする」ことが大事なのである。こうか,ああか,と考えている時,保育者は子どもをよく見るようになる。見ていく中で,わかることも広がり,同時になぞも広がる。そこでまた考え,関わり,また考える。保育とは,そのような積み重ねの中にある。だからこそ,「子どもの行為のわけを考え合う語り合いは,子どもをもっとよく見ようという思いへと向かわせる」に意味があると考えた。
理解できないことの中にある積極的な意味
「保育学」を学問として樹立することに貢献した津守真は,子どもの傍らに身を置きながら,そこで展開していることについて深く省察し続けた。津守の言葉に「日々の生活の中で,子どもは表現し,私は理解する。そして,その理解に従って私は行為する。しかし,完全に理解してからはじめるのではない。私共は子どもとの生活の中に投げ込まれている。そこでは,私に理解できないゆえに否定するのではなく,むしろ理解できないことの中に隠された意味があることを知って,肯定的に受け止めて交わりを継続する。ともに生きる生活において,理解できないことに積極的意味があるのを知ることが,相手をも自分をもよりよく生かす。」2がある。
津守の言葉は,子どもと過ごす状況の秘密を鮮やかに解き明かしている。私が子どもと過ごし,そこから学びを得ようとしているときの基盤に,津守の言葉がある。
「ともに生きる生活において,理解できないことに積極的意味があるのを知ることが,相手をも自分をもよりよく生かす」という言葉は,子どもが生き生きと育つ保育の根源に関わっている。「理解できない」という事態の受け止め方によって,保育が変わってしまうのである。
「理解できないこと」に積極的意味があると思わず,それは許されないことと考えていたとしたらどうだろうか。そうなるとできるだけ早く「理解できる」状態になりたくなり,「理解できた」つもりになってしまう可能性がある。ところが,保育者が「子どもはこうだ」と理解してしまったら(決めてしまったら),保育者はその捉え方でしか子どもを見られなくなってしまう。大きな危険性があるのである。
津守が言うように「理解できない(わからない)ことに意味がある」と感じていれば,その状態を大切に受け止めながら,目の前のその子どもとの関わりを継続させるだろう。それが「ともに生きる」生活なのである。私は,津守の言葉の根本にあるのが「わからない」という状態へのプラスの意識だと考える。そして,その状態を保ち続けるところに,あるべき保育者の姿勢を見るのである。
図1 A児の描いた絵
あるエピソードから
「わからない」という思いを抱えながら子どもと過ごした保育のあるエピソードを,以下に紹介する。
A児(5歳児)のお化けちゃんの絵
発熱のため園を早退することになったAちゃんの話である。Aちゃんは,保護者が迎えに来るのを待つ間に1枚の絵を描いた。屋根が壊れていて,その屋根の上にはクマちゃんがいて,屋根を直しているというような絵だった。家の中には調度品が描かれているけれど,誰もいなくてがらんどうのイメージだった。その子が翌日,具合がよくなって登園してきたときに持ってきたもが図1の上の絵である。
絵を見ながらAちゃんは以下のような話をした。
『ある日クマちゃんが屋根の穴を直していたら,急に雨が降ってきたら,お化けちゃんが来て,それで傘をくれた。それで傘を伸ばした。それでもクマちゃんはびしょぬれ。そして,それで下にいるお化けちゃんたちは洗濯したり,干したり,洗濯機で回したり,はしごを登ったり,こうやって温めたり,クマちゃん,寒いから温めました。』
Aちゃんはもう一枚絵を描いてきた。その絵には地下室が描かれていた(図1下)。階段を降りると地下室があり,そこにもお化けちゃんがいて,機械に薬を塗ったり,機械が壊れていないか調べたりしていた。
エピソードから考えたこと
お化けちゃんの絵を描いたA児は,気持ちを立て直すことが苦手で,みんなの動きに加わろうとしなかったり,気持ちがうまく伝えられないと泣き続けたりすることがある子どもだった。そのA児が,少しずつ変わり始めていたころの絵である。
頭が痛かったA児は,屋根が壊れている家の絵を描き,母親が迎えにきて家でゆっくり過ごした後に,あらゆる悩みごとを解決してくれるお化けちゃんで家をいっぱいにした。自分で考えた「お助けお化けちゃん」のことを話しているA児はとてもうれしそうだった。「何があっても大丈夫」というイメージを繰り返し自分に話しているように思えた。
A児がこの絵を描いて少ししたころに,ある出来事があった。運動会が近く,学級全体でリレーに取り組むことになったが,A児は加わろうとせず,座り込んだままだった。このようになることは予想できたのでそのままにしておいた。するとしばらくして自分から「入れて」と言って仲間に加わってきた。そしてすごい速さで走り通した。「Aちゃん,はやい」と友達からも認められる速さだった。
私がその姿を見て驚いていると,「どうして初めは走らなかったかっていうと,力をためていたんだ」と教えてくれた。力をためるという言葉がA児の口から出た時,私はA児が描いた絵のことを思い起こした。地下室で大きな機械が動き,何かを作り出している絵だ。その絵には「力をためている」というイメージがこめられているように思えた。
A児は,この後もいろいろな絵を描いている。いろいろに揺れながら育っていると感じさせられるA児を理解する入り口の一つに「絵」があるのではないか,と感じている。
おわりに
保育の中に身を置いていると日々新しい物語と出会う。目の前で起こることに応じる日々が保育の日々である。その日々の中で,子どもの中にも保育者の中にも何かがため込まれていく。それは何なのだろうか。問いは次々に生まれる。そして思う。重要なのは問いを持つことであり,問いへの向き合い方だろうと。
私たちが見出した「子どもの行為のわけを考え合おうとする語り合いは子どもをもっとよく見ようという思いへと向かわせる」という言葉をもう一度見ていこう。「子どもの行為のわけを考え合おうとする語り合い」において,私たちは明確な答えを早く確実に手に入れることを目標にしなかった。さまざまな見方を出し合い省察した。どこまでも可能性をひろげるという在り方で。それにより「子どもをもっとよく見ようという思い」が生まれ「よく見る」ということが出てきたのだと思う。
私が他領域の方々との出会いに心惹かれるのは,可能性の広がりを予感するからである。心理学の扉から保育の中の小さなエピソードを見たら,どのような見え方がするのだろうか。その話を聞きたいと思う。ゆっくりとした語り合いの中で,何かが重なり何かが広がればいいと思う。
注
- 1『保育学講座① 保育学とは 問いと成り立ち』日本保育学会編 p.1.
- 2『子どもの世界をどう見るか:行為とその意味』津守真 NHKブックス p.9.
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