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【小特集】

マジョリティ中心の社会における自分の立ち位置を知ること─社会モデルに基づく支援とは

野口 晃菜
一般社団法人UNIVA 理事

野口 晃菜(のぐち あきな)

Profile─野口 晃菜
小学6年で渡米,障害児教育に関心を持つ。筑波大学卒業後,小学校講師,企業の研究所長などを経て現職。編著に『差別のない社会をつくるインクルーシブ教育』(学事出版),『発達障害のある子どもと周囲との関係性を支援する』(中央法規出版)など。

障害のある子ども・大人への支援について,支援者からよく受ける質問がいくつかある。

  • 合理的配慮をして周りの子が「ずるい」と言ったらどうしたらいいですか? 特別扱いになりませんか?
  • そこまでやったら本人が甘えませんか? 努力しなくなりませんか?
  • 社会に出た時に本人が困りませんか?

これらは,いずれも「障害の社会モデル」について知る機会があったら出てこない質問ではないだろうか。

この10数年,民間機関の立場から学校教育や矯正教育,就労支援などに関わる中で,上記の質問はどの場においてもよく受けてきた。それだけ障害に関わる支援者に障害の社会モデルはまだまだ知られていないということである。学校の教職員や福祉職員向けの研修は各障害種の障害特性や特性に応じた手立てに関する内容が多く,社会モデルに基づいた障害の理解に関する研修はあまりない。

「周りの子が『ずるい』と言ったらどうするか」への回答

例えば,「周りの子が『ずるい』と言ったらどうするか」の質問に対して私は以下のような回答をする。

合理的配慮を提供しなければならない理由は,今の学校は見える人,聞こえる人,読める人,書ける人,歩ける人など,障害のない人を中心につくられているからです。

例えば,学校では紙の教科書とノートで学ぶことがスタンダードです。読み書きに障害のない子であれば,問題なく学ぶことができますが,読み書きに障害のある子は,教科書とノートではなかなか学ぶことは難しい。すでにそこに格差があります。

合理的配慮はゼロをプラスにする,ということではなく,マイナスをゼロにするためにあります。その子が他の子と同様に学ぶ権利を保障するためのものです。その子からしたら,これまではむしろ周りの子が「ずるい」状況だったわけです。周りの子が「特別扱い」をされていたわけです。

もし,周りの子が「ずるい」と言うのであれば,私は人権について学ぶ絶好のチャンスではないかと思います。もちろん当事者である子どもや保護者と相談の上ですが,合理的配慮とはなにか,なぜ合理的配慮が必要なのか,説明をするのはどうでしょうか。合理的配慮は障害者差別解消法において義務づけられています。どの子も障害のある人と共に働く可能性はあるわけですし,将来障害のある人がお客さんにいる可能性も当然あります。このようなことこそ学校教育で教えるべきことなのではないでしょうか。

このように社会モデルと合理的配慮について説明すると,納得する先生もいれば,一方でもやもやすると言う先生もいる。なぜもやもやするのだろうか。

「当たり前」の規範や構造を疑う

このような質問の背景には,誰もが無自覚のうちに内在化してしまっている規範や構造がある。同じ学年の子どもたちが同じペースで同じ内容を同じ方法で学ぶという学校の構造が,子どもたちに「ずるい」と言わせてしまい,教師にも「この子だけ特別扱いをさせられない」と思わせてしまっている。まさにこのような構造こそが社会的障壁となっている。

「本人の甘えになる,努力しなくなる」はどうだろうか。「努力をしたら評価される」「他者に『甘える』ことはよくないこと」という規範は学校,企業,家庭にも埋め込まれており,その結果,私たちもいつのまにか内在化してしまっている。

「社会に出た時に困る」についても,「社会に出る=誰にも頼ってはいけない,自分でなんでもできるようにならなければならない」という規範があるが故に,このような発言がされるのであろう。そのほかにも,「自分でできる力をつけさせなければならない」という能力主義に基づく考えがあったり,「子どもをよい高校や大学に合格させなければ自分の評価がおちる」などと自身が抑圧を受けたりしている可能性もある。

このような構造は社会的マジョリティであり,権力のある立場の人たちを中心につくられてきた。そのような構造の中で過ごしていても特に困っていなかったり,なんとか適応してサバイブしたりしてきた支援者は,被支援者にも同じことを求めてしまうことがしばしばある。

支援者が社会モデルの視点に出会うともやもやしたり,すんなりと受け入れることが難しかったりする理由は,これまで自分が信じてきた「当たり前」が覆されるからであろう。これまで自分自身は当たり前のものとして疑いもせず,気にもしてこなかったマジョリティ中心の規範や構造が,マイノリティ性のある人を排除してしまっていたことに気がつくことはショッキングなことでもある。

支援者である自分は社会のどこに立っているのか

社会モデルで現在の困難さを眺めることで,いかに現在の社会がマジョリティを中心につくられているか,それを自分が内在化してしまっているか,に少しずつ気づくことができる。障害のみでなく,性別,性別アイデンティティ,性的指向,経済状況,家庭環境など,この社会は,マジョリティを中心につくられている。その中で支援者である自分自身はどこに立っているのか。

例えば,障害のある子どもをもつ保護者は,就学前の就学相談において,どの学級/学校に就学するかについて相談をしなければならない。教育委員会からは特別支援学級に行くように伝えられても,通常の学級を希望する保護者も多い。その際に,「保護者が子どもの障害を受容していないから通常の学級に行きたいと言っている。子どもがかわいそうだ」と言う支援者がいる。

社会モデルの視点でこの問題をとらえると,障害のない子どもであれば当たり前に地域の通常の学級に就学するが,障害のある子どもは当たり前に就学できない,通常の学級が障害のない子ども中心につくられているなど,就学システム自体が不均衡な構造になっていることに気がつくことができる。

さらに,このような発言をしている支援者自身は,何も相談する必要もなく,地域の学校に就学する特権があった人が多いのではないだろうか。なお,ここで言う「特権」とは,マジョリティ集団に属するが故に努力することなく自動的に得られる恩恵のことである。支援者は,努力をしたから地域の学校に通えたわけではなく,たまたま障害がないため,自動的に地域の学校に通えるという恩恵を受けることができた人が多いのではないだろうか。社会モデルの視点でとらえると,自分自身は何も気にする必要がなかった社会の仕組みが,自らが支援をしている対象者を排除しているということに気がつく。

個人の問題? 構造の問題?

支援者が社会の構造の不均衡さを知らなかったり,自分自身の社会の中での立ち位置を知る機会がなかったりすると,不均衡な構造の問題を個人の問題に矮小化してしまいがちである。

例えば,職場でストレスを抱えているマイノリティ性のある人に対して「ストレス耐性がない」と判断し,安易に自らストレスケアをするように伝えることはないだろうか。そもそもその職場自体がマジョリティを中心につくられている可能性は高い。多くの職場は,長時間労働に耐えることができる人,例えば子育てを中心的に担っていない人や,介護をしていない人,病気や障害のない人を中心につくられている。その中でストレスを感じるのは本当にその人にストレス耐性がないからだろうか。そのほかにも,職場によってはハラスメント文化が蔓延っている可能性も大いにある。ハラスメントを受けている本人にストレスケアを迫っても根本的な解決にはつながらなく,支援をしているつもりが「ストレス耐性が弱い自分が悪い」とさらに被害者を責めてしまうことにもつながってしまう。

社会モデルのレンズでとらえる

社会モデルに基づく支援のためには,今の社会がマジョリティ中心につくられていることを知ること,被支援者の困難さの背景にある社会的障壁はなにかを分析すること,そして,今のマジョリティ中心の社会構造における自分の立ち位置はどこか,そのような構造が自分の支援行動にどのような影響を与えているのかを知ること,がポイントであろう。

そもそも支援者と被支援者という関係性そのものが不均衡である上に,社会的な立場としても支援者のほうが圧倒的に特権をもっている可能性が高い。その上でどのような支援をすべきかを考えたい。一人で向き合うのはなかなか難しい作業である。近しい仲間と共に話す機会をもつことをお勧めしたい。

  • *COI:本稿に関連して開示すべき利益相反はない。

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